つい最近「愛国ポルノ」といふ言葉を知った。前にも聞いたやうな気がするが、定かではない。ただ、「障碍者ポルノ」といふのがあったやうに思ひ、ちょっと検索してみたら「感動ポルノ」だった。これは障碍者の生活をテーマにしたドラマやドキュメントを指し、障碍があるけどこんなに頑張ってゐるといふ内容で、視聴者に感動を呼び起こす、いやむしろ感動を押し付けるものだ。

 私は、元々この種の番組が嫌ひだ。重い病気にかかってゐる人を取り上げるものもあるが、それも嫌ひである。ふと思ったのだが、そのハシリは「愛と死を見つめて」ではないだらうか。もう50年以上前だが、骨肉腫で余命わづかになってしまった女性と、その恋人がやり取りした手紙を、彼女の死後に出版したものだ。それが多くの人の感動を呼び、ベストセラーになった。映画やTVドラマにもなったし、青山和子が歌った曲はレコード大賞を取った。

 当時高校生だった私は素直に感動したが、社会人になってからは、この種のものにあまり感動しなくなった。内容が感動的でないわけではなく、何だか「感動しなさい」と言はれてゐるやうな気がして不愉快だったのだ。健康な人も頑張ってゐるでしょ?といふ思ひもあった。障碍者が取り上げられるやうになったのがいつ頃か記憶はないが、いつのまにかさういふものも増えてゐた。確かに病気や障碍はハンディキャップになるが、それに負けるのは、厳しく言へば人間として少しだらしない。健康な人も何かの事情で挫折することはよくあるが、多くの人はそこから立ち直る。

 もっとも、障碍者に対しては偏見や差別といふ現実がある。現在は、所謂ダイバシティの考へ方が広がってゐるが、半世紀前なら比較にならないほどつらい状況に置かれてゐただらう。障碍者を取り上げるやうになった当初は、さういふ状況を打破するためのアピールの意味があったのかもしれない。だが、昨今では「感動の押し付け」といふ雰囲気を感じさせるものになってゐる。裏話として、ドキュメンタリー撮影中の障碍者には深刻さうな態度が要求され、けらけら笑ふなどといふことがあればカットされるといったことが伝はってゐる。ついでにその流れで言へば、24時間テレビも好きではない。寄付が集まるのは結構だが、そこでも感動ポルノめいたものが放映されるからだ。また、タレントたちにギャラが支払はれるのにも疑問を感じる。もっとも、それを寄付する人もゐるやうなので、全面的に否定するわけではない。

 ちょっと脱線するが、乙武洋匡氏の登場は時代を切り開いたのではないかと考へてゐる。彼の著書を書店で見つけ、帯にある「障害は不便です。でも不幸ではありません。」といふ文だけでそれを感じた(本は読んでゐない)。


 さて「愛国ポルノ」だが・・・日本は素晴らしい国だといふことを訴へる本やTV番組を指すさうだ。さういふ番組を時々見るし、本屋に行ってもその種のタイトルがよく目につく。確かに以前より多くなってゐるが、そもそも、ここ10年かそこらの傾向ではないだらうか。TVはたくさん見てゐるわけではないが、どれも日本の良さを再認識させる内容になってゐて、ほお、さうだったのかと気づかされることもあり、わりと好きなジャンルではある。ただ、それを強調するあまり、外国にはかういふものはないといふ物言いが時に現れ、どうかと思ふ事もある。

 昨日のリテラによれば、その典型が四季だといふ。日本は四季の変化が美しいとよく言はれるが、熱帯や極地を除けば外国にも当然四季はある。どれほど美しいかは写真などでしか知らない自分にはよくわからないが、とにかく季節に応じた景色や楽しみがあるのは、芸術作品などからも窺ふことができる。ところが、さういふ番組に外国人タレントが招かれてコメントするケースでは、さういふことを言ってはいけないらしい。また、MCなどの日本人にも禁じられてゐるらしい。まあ、番組の性格上ある程度はうなづけるが、その種の発言があればカットされると聞けば、やりすぎの印象は否めない。

 リテラは、国全体の右傾化と軌を一にしてゐると分析してゐるが、私も数年前からさう感じてゐたので、それに同意する。また、「それは外国人タレントだけの問題ではない。日本人タレントでも日本批判めいたことを公の場で発言すれば、「反日」「在日は帰れ!」などといった中傷が殺到する。それどころか、外国のスポーツ選手を応援しただけで国賊扱いされる。」といふ記述もある。これはネトウヨの事を言ってゐるのだが、かういふ輩の存在は本当に嘆かはしい。しかし、それが実態であり、安倍政権になってからその傾向が進んでゐるやうに見える。戦前回帰は、程度はさてをき確実に進行してゐると私は判断してゐるが、残念ながら、私にはそれを止める力がない。
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 廃線の事は1年ほど前に決まってをり、利用者の少なさからやむを得ないと思ってはゐたのだが、先ほどのニュースで、最後の列車が増毛を発車したことを知った。ああ、今日だったのか・・・といふのがとりあへずの感想だったが、映像を見て急に寂しさが込み上げてきた。

 私は幼・少年時代を留萌で過ごしてをり、留萌本線は数へ切れないほど利用した。もっとも、親類が住む深川との往復が大半で、増毛方面に乗ったのはわずかである。それでも、なじみ深い路線が、一部とはいへ無くなってしまったと思ふと、感傷的にもなる。

 生まれて初めて汽車に乗ったのは、深川から留萌までである。三歳ちょっとの時で、もちろん記憶にないのだが、父の転勤に伴ふ移動だった。入学してからは、毎年冬・春・夏休みには行ってゐたと思ふ。SLが牽引する、まさしく「汽車」だったが、いつの頃からか機関車のない気動車(ディーゼル)が走るやうになり、準急も登場した。中1の夏休みに、それに乗りたいといふ希望がかなった。

 当時の汽車賃は110円、準急料金は記憶が定かでないが100円だったと思ふ。小柄だった私は半額の子供切符を買ったが、怪しまれはしなかった。駅に止まらないことの快感を味はひ、55分(普通列車は90分)といふ速さにも感激した。その「準急るもい」もいつの間にか走らなくなり、SLも姿を消したが、それは私が留萌を離れてからのことだ。

 さらに時代は移り、ローカル線廃止が進み始めた。その一方で、札幌と道東を短絡するため、石勝線が開通した。事のついでに書いてをくと、それによって根室本線の滝川・新得間が事実上ローカル線に格下げされた。不運にも、今夏の台風でその一部が不通になったが、JR北海道はそのまま廃線にするといふ。


 ともあれ、時代の流れに抗ふのは難しい。今春北海道新幹線が開業し、15年後には札幌までつながる。その頃にはすでにリニア新幹線が名古屋まで走ってゐる予定だ。逆に北海道の鉄路は、札幌周辺を除けば見る影もなく貧弱になってゐると予測できる。おそらく留萌本線も無くなってゐるだらう。他にも、あちこちで一時的な感傷に浸る人がゐるに違ひない。
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 あるブログによると、江戸時代の末期、江戸市民の喫煙率は97%くらいだったらしい。根拠は三河屋弥平次といふ煙草屋が1820年に著した『狂歌煙草百首』といふ書物である。詳しくはそのブログを読めばわかるのだが、弥平次は、タバコの生産量と江戸での流通量、及び江戸の人口から推計してゐるさうだ。ただし、人口についてはこのブログの筆者の推計といふ読み方もできるので、ちょっとわかりにくいが、その人口推計は一般に言はれてゐる110万である。
 
 浮世絵には、キセルを手にした美人画もあるので、男女の差はあまりなかったかもしれない。筆者は「江戸の町の喫煙率は老若男女問わず、97%」と書いてゐる。

 さて、これだけ高い喫煙率だった江戸市民に肺ガンなど肺の病気が多発したといふ記録はないさうだ。そのことはあるメルマガで知ったのだが、確かにさういふ話を聞いたことはない。医学の進歩で病気の分類が細かくなり、昔はよくわからない病気とされてゐたものが実は肺ガンだった、といふことはあるかもしれないが、それにしても多発といふ印象はほとんどない。平均寿命はかなり低かったが、それは幼児の死亡率が高かったことや、医学の未発達によって不治の病が多かったためらしい。喫煙率の高さと関係があるといふ研究結果は聞いたことがない。さういふ研究は不可能に近いのではないか。

 以前にも書いたが、管見では医療費の増大は寿命が延びたことによるものが相当部分を占めてゐる。寿命は延びても、健康寿命はそれより低いからだ。生活が豊かになって、貧しい頃なら置き薬などで対応した程度の不調でも病院に行くやうになったこともある。2025年問題と称されるものが語られてゐるが、それは私も属する団塊の世代がすべて75歳以上になることで、医療費のさらなる増大が予想され、健保財政が破綻するかもしれない・・・といふ問題が含まれてゐる。団塊世代も今ではかなり喫煙率が下がってをり、高齢による治療や介護の必要が多くの人に発生するのが大半の理由と思はれる。

  厚生労働省の推計によれば、2025年の医療保険給付は総額54兆円と、現在より12兆円以上増える見通しだといふ。膨大な額で、仮に喫煙率が下がって病気が減ったとしても、焼け石に水でしかない。つまり2025年問題に喫煙率はほとんど関係ないし、この推計は管見を裏付けるものでもある。


 だんだん話がそれてしまったが、言ひたかったのは、タバコと健康の関係についてよく言はれてゐることの多くはデマゴギーではないだらうか、といふ疑問である。
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 面白くて衝撃的な記事を見つけた。

 AIに仕事を奪はれないためには文章の読解力が必須である、といふ趣旨なのだが、そもそもAIには読解力はないさうだ。例へば、「徳川家康は(    )年の関ヶ原の戦いで、石田三成らの西軍を破った」の(    )に何が入るか。 これに対してAIは、文章をパターンとして認識し、膨大なデータを瞬時に検索することによって「1600」が入ることを確率的に導くのだといふ。我々人間は、文の意味を理解し、あとは「1600年関ヶ原」を知識として持ってゐるかどうかの問題である。してみると、簡単な会話ができるAIもあるやうだが、その会話も、内容を理解して答へるのではなく、音声パターンとして認識した上でデータ処理によって確率的に返事をしてゐるのかもしれない。

 これが「面白い」と感じたこと、では「衝撃的」だったのは・・・

 仏教・キリスト教・イスラム教の世界的な広がりを簡単に書いた文を読ませ、では「オセアニアに広がってゐるのは?」と問ふのだが、私の感覚では、小学生でも4~5年生になればわかると思はれる。しかし、データとしては公立の中学生が57%、同じく高校生が81%の正解しかなかった。出来の悪い生徒がゐるのは仕方ないのだが、それにしてもひどい。要するに文が読めてゐないのだ、といふのが筆者の見方で、人間がAIに勝るこの分野を鍛へなければ、AIにとって代はられてしまふと危惧する。


 なるほどねえ・・・現在人間がやってゐる仕事の半分くらいはAIに奪はれる、などどいふ言説がよくなされるが、この記事はAIの特徴(弱点)を踏まへて、さうならないための提言をしてゐるわけだ。私は何となく、AIが発達しても人間の仕事は新たに生じ続けるだらうと思ってゐたが、それを少し明確な形で捉へる事が出来たやうな気がする。
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 具体的には忘れたが、何かのきっかけで「承詔必謹」といふ言葉が頭に浮かんだ。これ十七条憲法だったよなと思ひながら検索すると、やはりさうだった。ひとまづホッとしたのだが、ほかに見える項目にちょっと興味を惹かれた。

 それは「承詔必謹と日本国憲法~日本国憲法有効論~」といふタイトルだったが、それだけでは意味が全然わからない。そこで読むことにしたのだが、その前にそのサイトの名称が目に入る。「出ずる日の下(もと)に立ち上がれ(旧・大日本帝國憲法入門)」となってゐた。右翼のものとわかるが、それにしては、現憲法が有効といふのは解せない。

 読んでみると・・・憲法の定義から始まってゐるのだが、それは以下の通りである。

 :憲法とは、我が国の道徳や慣習、伝統などの「不文の法」のうち、特に国家の統治に関わる規範をいいます(不文憲法)。憲法とはその本来の姿は不文の規範であり、不文憲法なのです。

そして、その不文憲法を明確にするために、「当たり前」のことながらこれらをあえて成文化し、さらに憲法規範とはいえないような技術的な事項(例えば「会計」など)を適宜付け加えたものを成文憲法(憲法典)といいます。

我が国においては、この定義に当てはまる成文憲法(憲法典)は十七条憲法、五箇条の御誓文、大日本帝国憲法、皇室典範などが挙げられます。

近代に起草された成文憲法については、「憲法とは権力の抑制と均衡を図るものである」などという説明もなされますが、これは憲法の機能の一つであって、定義ではありません。:


 なるほど、これが右翼の考へる憲法か・・・まあ、すべての右翼ではないだらうが、これまでいろいろ右翼の主張を見聞してきたが、かういふのを根本に持ってゐる事がわかれば、理解しやすい。

 さて、「承詔必謹」だが・・・。これは十七条憲法の第三条にあり、臣下が守るべき規範である。そこで、”現憲法は本来の憲法ではないのだが、昭和天皇の詔によって公布されたのだから「承詔必謹」によって従はねばならず、有効な憲法といふことになる”といふ理屈が右翼の中にあるらしい。それは帝国憲法を奉ずる者にとっては困った問題であるやうだ。

 その矛盾を「無効規範の転換」といふ法理を使って止揚する、といふのがこの文章の目的であり、中心的な部分を以下に引用する。

 :「無効規範の転換」という法理(法律学上の理論)があります。これは、「その法令の名称がどんなものであっても、その内容が憲法典に反しないものであれば(反しないように解釈し直して)、それを有効として認める」というものです。
これを理論を成文化したものが、大日本帝国憲法第76条第1項なのです。:

 帝国憲法に基づかずに成立した法律などでも、帝国憲法に反しないものであれば、社会の安定のため有効とするのがその意味であるとし、現憲法についてもそれを適用すれば「承詔必謹」に悖ることはないと論を展開する。ただし、基本的人権の尊重など、帝国憲法に反する部分は無視する。


 「無効規範の転換」といふのは聞いたことがあるやうな気がする、といふ程度だったので法律学小辞典に当たってみた。するとそれはなかったが、「無効行為の転換」といふ項目があった。詳細は省くがこれは民法上の用語で、憲法とは無縁のものだった。

 さらに帝国憲法76条第1項を見ると、帝国憲法が成立する以前からあった規範について、憲法に反しないものは有効とする、といふ内容だった。

 この論者は、帝国憲法以後に帝国憲法によらずに制定された法規にそれを当てはめるといふ誤謬を犯し、しかも民法上の法理である「無効行為の転換」を「無効規範の転換」と転用して、憲法の有効性を論ずるためその理屈を使ってゐるのだった。


 私は法律を少ししか勉強してゐないので、あまり断定的なことを言ふ資格はない。だから、上の評価が100%正しいと言ふ自信はないが、「承詔必謹」と現憲法は無効だといふ主張を整合させるために、相当な無理をして理屈をひねり出したのだとも思ふ。しかし、同じ事を書いてゐる別のサイトもあったので、右翼勢力ではそれなりの説得力を持って受け入れられてゐるのかもしれない。



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