昨年、USAの映画関係で、女優たちがプロデューサーのセクハラを受け続けてゐたといふことが明らかになり、それに関する報道にピューリツァー賞が与へられた。その経緯をおおざっぱに言へば、初めてセクハラを訴へたある女優に、次々と他の女優たちが同調した事で大きな問題となり、その際使われたと思はれる「Me Too」が、その後運動のスローガンになった。

 日本人なら中学生でも理解可能な英語である。そして、単純な言ひ回しであるがゆゑに意味が広がる可能性がある。本来は「私もさうだ」つまり「私もセクハラを受けた」であり、当初はその意味だった。しかし、セクハラ一般への抗議スローガンとし使はれる場合には、まさしく意味が広がってゐる。つまり、それを掲げる人がセクハラを受けたかどうかは無関係であり、男性が掲げても全く問題はない。


 野党の女性議員たちが黒い服を着て「Me Too」を掲げたのも、当然その広げられた意味で、福田氏の一件への抗議として使ったわけである。実際にセクハラがあったのか、それが不明な段階でさういふ行動をとる事の是非は別に検討する必要がある(*)。だが、彼女たちに批判的な姿勢からの言動は醜悪としか言ひやうがない。

 「あなたたちにはセクハラしません」と言ふのは、「私もセクハラしますが、対象はあなたたちより若くて美しい女性です」と同義である。これはセクハラを「しても良いもの」と認めた上で、当該女性たちには魅力がないとする発言で、犯罪的かつ失礼千万である。「その発言自体がセクハラだ」といふ反応があったのも当然だらう。

 また、「Mee Too」は私もされたっていふ意味だから、セクハラされたことのない人がそれを掲げるとは笑止千万、といふ発言も酷い。敢へて本来の意味に限定して彼女たちを馬鹿にしてゐるのだ。(*)に示した意味での批判なら一応頷けるのだが、この発言者(本人曰く「名もない田舎の老人」)は、単に野党嫌ひから坊主憎けりゃ・・・の感覚で暴言を吐いてゐるとしか思へない。
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 あるきっかけからようつべの動画を視聴し、脇にある案内から面白さうなものにに転じたりしてゐた。その中に浅沼稲次郎追悼集会のものがあった。2007年10月に当時の社民党が開催したのだが、歴代委員長などの挨拶に挟まって、浅沼の演説の様子も入ってゐた。それが何と例の事件の日のもので、山口二矢が突進して浅沼を刺す瞬間も写ってゐた。

 その瞬間の写真は当時新聞で見たし、その後も折に触れて提示されてきたから脳裏に焼き付いてゐる。また、沢木耕太郎の「テロルの決算」で、浅沼と山口の軌跡に加へてそれを撮影したカメラマンの当日の様子も詳しく知った。だが、動く映像はこれまで見たことがなかった。TVか映画か、誰が撮影したのか、旧社会党あるいは社民党が保管してゐたのか、それともどこかから借りたのかも分からないが、とにかく存在してゐたわけで、現在もあるに違ひない。

 ともあれ、少年時代に受けた強い衝撃に似たものを別な意味で感じた次第である。(*問題のシーンは7:02から)
https://www.youtube.com/watch?v=CBsvmc0BqOE
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 つい最近「愛国ポルノ」といふ言葉を知った。前にも聞いたやうな気がするが、定かではない。ただ、「障碍者ポルノ」といふのがあったやうに思ひ、ちょっと検索してみたら「感動ポルノ」だった。これは障碍者の生活をテーマにしたドラマやドキュメントを指し、障碍があるけどこんなに頑張ってゐるといふ内容で、視聴者に感動を呼び起こす、いやむしろ感動を押し付けるものだ。

 私は、元々この種の番組が嫌ひだ。重い病気にかかってゐる人を取り上げるものもあるが、それも嫌ひである。ふと思ったのだが、そのハシリは「愛と死を見つめて」ではないだらうか。もう50年以上前だが、骨肉腫で余命わづかになってしまった女性と、その恋人がやり取りした手紙を、彼女の死後に出版したものだ。それが多くの人の感動を呼び、ベストセラーになった。映画やTVドラマにもなったし、青山和子が歌った曲はレコード大賞を取った。

 当時高校生だった私は素直に感動したが、社会人になってからは、この種のものにあまり感動しなくなった。内容が感動的でないわけではなく、何だか「感動しなさい」と言はれてゐるやうな気がして不愉快だったのだ。健康な人も頑張ってゐるでしょ?といふ思ひもあった。障碍者が取り上げられるやうになったのがいつ頃か記憶はないが、いつのまにかさういふものも増えてゐた。確かに病気や障碍はハンディキャップになるが、それに負けるのは、厳しく言へば人間として少しだらしない。健康な人も何かの事情で挫折することはよくあるが、多くの人はそこから立ち直る。

 もっとも、障碍者に対しては偏見や差別といふ現実がある。現在は、所謂ダイバシティの考へ方が広がってゐるが、半世紀前なら比較にならないほどつらい状況に置かれてゐただらう。障碍者を取り上げるやうになった当初は、さういふ状況を打破するためのアピールの意味があったのかもしれない。だが、昨今では「感動の押し付け」といふ雰囲気を感じさせるものになってゐる。裏話として、ドキュメンタリー撮影中の障碍者には深刻さうな態度が要求され、けらけら笑ふなどといふことがあればカットされるといったことが伝はってゐる。ついでにその流れで言へば、24時間テレビも好きではない。寄付が集まるのは結構だが、そこでも感動ポルノめいたものが放映されるからだ。また、タレントたちにギャラが支払はれるのにも疑問を感じる。もっとも、それを寄付する人もゐるやうなので、全面的に否定するわけではない。

 ちょっと脱線するが、乙武洋匡氏の登場は時代を切り開いたのではないかと考へてゐる。彼の著書を書店で見つけ、帯にある「障害は不便です。でも不幸ではありません。」といふ文だけでそれを感じた(本は読んでゐない)。


 さて「愛国ポルノ」だが・・・日本は素晴らしい国だといふことを訴へる本やTV番組を指すさうだ。さういふ番組を時々見るし、本屋に行ってもその種のタイトルがよく目につく。確かに以前より多くなってゐるが、そもそも、ここ10年かそこらの傾向ではないだらうか。TVはたくさん見てゐるわけではないが、どれも日本の良さを再認識させる内容になってゐて、ほお、さうだったのかと気づかされることもあり、わりと好きなジャンルではある。ただ、それを強調するあまり、外国にはかういふものはないといふ物言いが時に現れ、どうかと思ふ事もある。

 昨日のリテラによれば、その典型が四季だといふ。日本は四季の変化が美しいとよく言はれるが、熱帯や極地を除けば外国にも当然四季はある。どれほど美しいかは写真などでしか知らない自分にはよくわからないが、とにかく季節に応じた景色や楽しみがあるのは、芸術作品などからも窺ふことができる。ところが、さういふ番組に外国人タレントが招かれてコメントするケースでは、さういふことを言ってはいけないらしい。また、MCなどの日本人にも禁じられてゐるらしい。まあ、番組の性格上ある程度はうなづけるが、その種の発言があればカットされると聞けば、やりすぎの印象は否めない。

 リテラは、国全体の右傾化と軌を一にしてゐると分析してゐるが、私も数年前からさう感じてゐたので、それに同意する。また、「それは外国人タレントだけの問題ではない。日本人タレントでも日本批判めいたことを公の場で発言すれば、「反日」「在日は帰れ!」などといった中傷が殺到する。それどころか、外国のスポーツ選手を応援しただけで国賊扱いされる。」といふ記述もある。これはネトウヨの事を言ってゐるのだが、かういふ輩の存在は本当に嘆かはしい。しかし、それが実態であり、安倍政権になってからその傾向が進んでゐるやうに見える。戦前回帰は、程度はさてをき確実に進行してゐると私は判断してゐるが、残念ながら、私にはそれを止める力がない。
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 廃線の事は1年ほど前に決まってをり、利用者の少なさからやむを得ないと思ってはゐたのだが、先ほどのニュースで、最後の列車が増毛を発車したことを知った。ああ、今日だったのか・・・といふのがとりあへずの感想だったが、映像を見て急に寂しさが込み上げてきた。

 私は幼・少年時代を留萌で過ごしてをり、留萌本線は数へ切れないほど利用した。もっとも、親類が住む深川との往復が大半で、増毛方面に乗ったのはわずかである。それでも、なじみ深い路線が、一部とはいへ無くなってしまったと思ふと、感傷的にもなる。

 生まれて初めて汽車に乗ったのは、深川から留萌までである。三歳ちょっとの時で、もちろん記憶にないのだが、父の転勤に伴ふ移動だった。入学してからは、毎年冬・春・夏休みには行ってゐたと思ふ。SLが牽引する、まさしく「汽車」だったが、いつの頃からか機関車のない気動車(ディーゼル)が走るやうになり、準急も登場した。中1の夏休みに、それに乗りたいといふ希望がかなった。

 当時の汽車賃は110円、準急料金は記憶が定かでないが100円だったと思ふ。小柄だった私は半額の子供切符を買ったが、怪しまれはしなかった。駅に止まらないことの快感を味はひ、55分(普通列車は90分)といふ速さにも感激した。その「準急るもい」もいつの間にか走らなくなり、SLも姿を消したが、それは私が留萌を離れてからのことだ。

 さらに時代は移り、ローカル線廃止が進み始めた。その一方で、札幌と道東を短絡するため、石勝線が開通した。事のついでに書いてをくと、それによって根室本線の滝川・新得間が事実上ローカル線に格下げされた。不運にも、今夏の台風でその一部が不通になったが、JR北海道はそのまま廃線にするといふ。


 ともあれ、時代の流れに抗ふのは難しい。今春北海道新幹線が開業し、15年後には札幌までつながる。その頃にはすでにリニア新幹線が名古屋まで走ってゐる予定だ。逆に北海道の鉄路は、札幌周辺を除けば見る影もなく貧弱になってゐると予測できる。おそらく留萌本線も無くなってゐるだらう。他にも、あちこちで一時的な感傷に浸る人がゐるに違ひない。
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 あるブログによると、江戸時代の末期、江戸市民の喫煙率は97%くらいだったらしい。根拠は三河屋弥平次といふ煙草屋が1820年に著した『狂歌煙草百首』といふ書物である。詳しくはそのブログを読めばわかるのだが、弥平次は、タバコの生産量と江戸での流通量、及び江戸の人口から推計してゐるさうだ。ただし、人口についてはこのブログの筆者の推計といふ読み方もできるので、ちょっとわかりにくいが、その人口推計は一般に言はれてゐる110万である。
 
 浮世絵には、キセルを手にした美人画もあるので、男女の差はあまりなかったかもしれない。筆者は「江戸の町の喫煙率は老若男女問わず、97%」と書いてゐる。

 さて、これだけ高い喫煙率だった江戸市民に肺ガンなど肺の病気が多発したといふ記録はないさうだ。そのことはあるメルマガで知ったのだが、確かにさういふ話を聞いたことはない。医学の進歩で病気の分類が細かくなり、昔はよくわからない病気とされてゐたものが実は肺ガンだった、といふことはあるかもしれないが、それにしても多発といふ印象はほとんどない。平均寿命はかなり低かったが、それは幼児の死亡率が高かったことや、医学の未発達によって不治の病が多かったためらしい。喫煙率の高さと関係があるといふ研究結果は聞いたことがない。さういふ研究は不可能に近いのではないか。

 以前にも書いたが、管見では医療費の増大は寿命が延びたことによるものが相当部分を占めてゐる。寿命は延びても、健康寿命はそれより低いからだ。生活が豊かになって、貧しい頃なら置き薬などで対応した程度の不調でも病院に行くやうになったこともある。2025年問題と称されるものが語られてゐるが、それは私も属する団塊の世代がすべて75歳以上になることで、医療費のさらなる増大が予想され、健保財政が破綻するかもしれない・・・といふ問題が含まれてゐる。団塊世代も今ではかなり喫煙率が下がってをり、高齢による治療や介護の必要が多くの人に発生するのが大半の理由と思はれる。

  厚生労働省の推計によれば、2025年の医療保険給付は総額54兆円と、現在より12兆円以上増える見通しだといふ。膨大な額で、仮に喫煙率が下がって病気が減ったとしても、焼け石に水でしかない。つまり2025年問題に喫煙率はほとんど関係ないし、この推計は管見を裏付けるものでもある。


 だんだん話がそれてしまったが、言ひたかったのは、タバコと健康の関係についてよく言はれてゐることの多くはデマゴギーではないだらうか、といふ疑問である。
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1949年1月生まれ、還暦を期にブログを始めました。記述することは多岐にわたります。
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