ある本を買ふつもりで本屋に行った。それを見つけると、近くにこの本があった。私の関心事に合ひ、かつタイムリーだった。著者の高森明勅は、TVか新聞でコメントしてゐるのを見たり、天皇・皇室の分野の第一人者といふ評価をネットで見たこともあるが、著作を読んだことはなかった。

 そんなわけで、ちょうどいいと思ってそれも購入してきた。発行は昨年11月末だが、執筆の企画は7月にあり、秋までに刊行する予定でゐたところ、例のビデオメッセージがあったため、いろんな依頼が立て込んで手が付けられずにゐたさうだ。その結果、「お言葉」を踏まへて書くことになった。

 読んでみて、私の意見とほぼ同じであることに驚いた。専門家だから、内容に比べ物にならない深さがあるのは当然だが、譲位を認めるべき事、法的な手当ては皇室典範の改正で行ふべき事、女性・女系天皇を認めるべき事など、根幹はほとんど変はらない。

 ここでは、私が気づいてゐなかった事や教へられた事をいくつか書いてをく。


 一つには、日本国憲法第一条にある「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」についての考察である。詳細は省くが、天皇は国事行為によって国家の公的秩序の頂点に位置する事を示し、それが「日本国の象徴」としての務めである。一方、「国民の安寧と幸せを祈り、人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思ひに寄り添ふ」(「お言葉」から抽出)事が「日本国民統合の象徴」としての務めである。言はば前者は「静態」、後者は「動態」としての務め----これは大原康男氏の「象徴天皇考」にある述語を借用した説明だが----、その「動態」の具体的な内容はこれまであまり考察されてをらず、まさに今上陛下が身をもって示されてきた事としてゐる。

 私は、中学の社会科で憲法を習ったときに初めて「象徴」といふ言葉を知った。先生は「学校の校章のやうなもの」と説明したが、全く理解できなかった。もちろん数年後には理解したが、憲法上の「象徴」はぼんやりとした理解のまま、特に「国民統合の象徴」については、多くの人と同様ほとんど考へたことがなかった。だから、「静態」「動態」といふ観点にはなるほどと思はされた。


 次に女系天皇についてだが、著者は奈良時代の元正天皇を女系と認識してゐる。女帝である元明天皇の娘なので女系と言へるのだが、通説は、天武天皇の長男(草壁皇子)の長女なので男系といふ見解を取ってゐる。双系あるいは「めをと系」と考へることもできるが、とにかく重要な問題点だ。男系男子継承を絶対とする立場では女系天皇は過去一人もゐないとするが、もし元正が女系天皇ならその主張は根拠を失ふ。

 著者は、養老令の中の継嗣令に「皇兄弟・皇子はみな親王とせよ(女帝の子もまた同じ)」とあるのを示し、女帝の子はそれゆゑに親王なのであり、女帝の配偶者の血筋は問はないと解釈する。そして、親王は皇位継承資格者なのだから、元明から元正への継承は女系継承であるとする。なを、令のカッコ内は「本注」と呼ばれ、条文に元々備はってゐる注で本文同様法的拘束力がある。

 一方、通説は元明・元正の両天皇を首皇子(後の聖武天皇)が成人するまでの中継ぎとしてをり、それには二人の即位の経緯に照らして根拠がある。本来は、崩御した文武天皇の子である首皇子が即位すべきところ、幼少のため祖母(元明)・伯母(元正)がやむなく続けて即位したと見るのだが、日本書紀にはさう解釈できる記述がある。そして、元正は父系が天武につながるのだから男系であり、母が天皇だったのは偶々に過ぎないと考へるのだらう。偶々と言へば、元正を女系と見る立場では天武の孫だったのが偶々といふことになりさうだ。なを、養老令は757年の施行(制定は718年)で、両女帝の時代に有効だったのは大宝令だったが、同様の規定があったとされてゐる。

 私はこれまで通説に従ってゐたが、この本を読んだ今では、どちらが正しいのかわからない。ともあれ著者は、女帝も女系天皇も過去に例があるし、その根拠たる法規も明治の皇室典範ができるまで有効(実態はさてをき)だった事を重視する。そして、男系男子に拘ればいづれ皇統が断絶することを指摘して典範の改正を急ぐべきとする。


 もう一つ、旧宮家を復活させ、あるいは旧宮家の未成年男子を皇族の養子に迎へて皇族男子を確保するといふ主張への反論がある。簡単にまとめれば「現実性がない」といふ主張だ。著者は旧宮家の人を取材してその意志がないことを確認してゐる。また、養子については、常陸宮家は高齢のご夫妻のみ、三笠宮家と高円宮家には女性しかをらず、そもそも養子を迎へるべき宮家がないと言ふ。ただ、高齢や女性だけの家は養子を取れないのか、私にはよくわからない。

 加へて、理由の如何を問わず一たび皇族の地位を去れば復帰は認められない、といふ原則があるらしい。明治40年の皇室典範増補に規定があり、現在無効とはいへ、古来の不文法を成文化したものだから現在も従ふべき、といふ葦津珍彦の指摘(昭和29年)で、著者自身はそれを紹介するにとどめてゐる。


 他にもあるが、この三点はかなり重要と思ふ。あと、言はば番外として、沖縄関連を挙げてをく。陛下は皇太子時代を含めて数回、沖縄を訪問されてゐるがその事ではない。沖縄では、毎年6月23日に沖縄戦の追悼式があるが、その前夜祭で御製が流されるといふ。御製は普通和歌だが、ここでは「琉歌(りゅうか)」だ。琉歌は八・八・八・六で作られる定型詩で、御製には「摩文仁」といふタイトルがあり、琉球音楽の調べにのせて献奏される。現在では、よほどの専門家以外に琉歌を詠める人はゐないさうで、さる地元の学者が「陛下はすごい」と感嘆したといふ。琉歌を初めて知った私も感嘆した。


 最後に、著者は典範の改正試案も提示して解説してをり、よく考へられたものと感じたことを付け加へてこの稿を終へる事にする。
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 昨年8月8日のビデオメッセージを受けて、譲位を含めた天皇の公務のあり方が検討されてきた。とはいへ、それは表向きの表現で、実態は天皇の譲位をどう実現するかが中心のテーマだ。伝はってゐる情報によると、今上陛下が譲位可能となる趣旨の特別法を制定する事になるやうだ。そういふ対応に私は反対で、皇室典範を改正して将来にわたって譲位を可能にすべきと考へてゐるが、今回のテーマはそれではない。

 あのお言葉でわかった重要な事は、陛下が日本国憲法のもとでの象徴のあり方を模索し、自らの行為でそれを表現してきたといふ事だ。それは当然、昭和天皇の姿をも参考にしてゐる。昭和天皇が一般国民に初めて生の姿を見せたのは、昭和20年代後半の全国巡幸だった。私は小学校に上がる前の年にそれを体験してゐる。

 母が「天皇陛下が来るんだよ」と言ひ、家族とともに駅まで行った。すると、黒山の人だかりでほとんど見えなかったが、駅前の広場で手を振ってゐたやうに思ふ。しかし、兄と姉に聞いてみると三人の記憶は全部違ってゐた。当時中2だった兄の記憶が最も信頼できると思はれるが、それによると陛下は駅に降り立たず、ゆっくり進む汽車の中から手を振ったらしい。

ともあれ、世は神武景気の直前、それに先立つ朝鮮特需で戦後復興が軌道に乗る頃だった。だから、敗戦に打ちひしがれて・・・といふ時代ではなく、その背景もあってか、この巡幸は大歓迎された。今上陛下ははたちを迎へる頃だったから、巡幸の意味や国民の反応も十分理解されたに違ひない。

 私は、この全国巡幸が現代日本人が持つ天皇像の原点ではないかと考へる。天皇の姿を見るのは正月の一般参賀や行事の時などだが、大災害に際して被災地を訪問し、住民を励ます姿は最も身近に感じられる場面だらう。個人的に強く印象に残ってゐるのは奥尻島の地震と津波の時のことだ。私の母親より少し年下に見える女性が、TV局の取材に答へて「美智子さん来てくれて・・・」と言ってゐた。「皇后陛下」や「皇后さま」ではなく「美智子さん」と呼ぶのは、ミッチーブームを知ってゐる世代にとっては普通の事で、私もさうなのだがそれはともかく、ずいぶん力づけられたに相違ない。何かの行事でたまたま身近に接する場合は、人気者を間近に見るのとあまり違はないかもしれないが、自分たちのために励ましに来てくれたといふのは比較にならない体験であり、天皇や皇室への敬意を高める。全国巡幸を原点と考へる理由がそこにある。

 「お言葉」の解説記事によれば、色んな所から臨席依頼があるがそれらを平等に考へてすべて応じるのが陛下の姿勢で、それも公務負担の増大につながってゐるといふ。そして、国民の目に見えない宮中での祭祀、目に見える国事行為や公務をすべて全身全霊で行ふのが象徴としての務めであると陛下はお考へだ。それを困難にする年齢条件が成り立ちつつあるといふ自覚から、あの表明となったわけである。

 ところで、譲位を好ましくないとする立場からは、天皇は、年齢や健康状態などの理由で姿を現せなくなっても国民の幸せを願ってゐて下さればそれで十分、目に見えることは摂政に任せればよい、といふ意見が出されてゐる。今や多くの人に知られてゐる日本会議などの立場だが、それには賛同できない。

 そもそも彼らは、大日本帝国憲法を本来の憲法と考へてゐるらしい。そして天皇親政が理想なのだが、それは流石に現代にそぐはないし、帝国憲法下にをいても天皇はほとんど意思決定をしなかった。そこで、宮中祭祀と民の幸せを祈る事に天皇のあるべき姿を求める。もっとも、双方とも帝国憲法にはないのだが、恐らくは祭祀が伝統的に行はれてゐる事や、伝へられる仁徳天皇の善政などが念頭にあるのだらう。そして、譲位や退位が混乱の一因となった歴史に鑑みてそれを否定した旧皇室典範を至高のものと考へる。

 その前提から前記の事が導かれるのだが、果たしてさうか。歴史を振り返れば、天皇親政はほぼ天智天皇から平安時代の初め頃までである。摂関政治・院政の時代を経て武家政治が始まる。後醍醐天皇は親政復活を試みたが一時的なものに終わり、南北朝時代につながる。それらの事態に譲位が関はったのは確かだが、室町時代の義満以降にさういふ事例はない。そして幕末、王政復古の大号令が発せられるが、実態は維新に功績のあった者たちによる政治であり、そのスタイルが憲法によって確定された。

 さらに言へば、天智以前は豪族の合議が重視され、天皇(大王)はそれに従って最終的な決定を下すといふ形態だった。明治憲法はそれを明文化したとも言へる。宮中祭祀がいつ始まったのかはよくわからないが、古代は祭政一致だったので、かなり古くからあるのは間違ひない。そして、民の幸せを祈る事についてはもっとわからない。前述した仁徳天皇の善政が史実だったとしても、すべての天皇がさうだったとは言へない。ただ、農業が主要な産業なので、五穀豊穣を祈ることは祭祀の大きな要素だった。それは国家経営の基盤となる税収のためだが、豊作は民の幸せにもつながる。だがそもそも、仁徳天皇が租税を免除したのは三年間とされてをり、それまでの税収による蓄へがたっぷりあった事を示してゐる。それだけ民は収奪されてゐたわけだ。

 推測ではあるが、天皇が真の意味で民の幸せを祈るやうになったのは意外に新しい時代ではないだらうか。ひょっとすると明治以降かもしれない。実権がなく奉られるだけの存在になってからの天皇にはあまりする事がなく、和歌を詠んだり祈ったりするだけだった。時折実権を持つ者の要請に応じて勅を発するが、形式的な手続きでしかない。それが自らの利益に結び付く場合も多かったわけで、民の幸せとはとりあへず無関係だ。もっとも、五穀豊穣の祈りは必要であり、税の徴収を司るのは実権者となれば、祈りの意識に民の幸せが大きな位置を占めるやうになるかもしれない。いづれにせよ、国民国家といふ概念がなかった時代に、民の幸せを祈るのが自らの役割であるといふ自覚があったとは考へにくいのだ。

 個人的な印象で言へば、その自覚が明確になり、国民もさう感じるやうになった画期はやはり戦後の全国巡幸である。そして数年後、ミッチーブームがやってくる。思へば、一部には美智子さんの入内を歓迎しない者がゐた。現在、それは宮中の保守的な者たちと言はれてゐるが、恐らく皇国史観に立つ者もさうだったらう。妃がたくさんゐた時代から、妃たちの頂点たる皇后の出自には厳しい制約があったし、王家の血筋でない女性が産んだ皇子は原則として天皇になれなかったのだ。さういふ事を言ひたくても、皇太子は未来の天皇であり、表立っての反論ができなかったにすぎない。


 やうやく本題に戻るが、日本会議などが言ふ祈る天皇とは、連綿と続いてきた祖霊祭祀と五穀豊穣の祈りを除けば、伝統といふほど長い期間に亘った姿ではない。そして現代、その二つは国民にとってさほど重要ではない。重要なのは民の幸せを祈る事、そしてそれが見える事だ。だから、祈る事はできてもその姿を見せることができなければ象徴としての務めを果たす事にはならない、といふ今上陛下の思ひ(私の解釈による)は、現代の日本と国民の意識を正しく把握した上でのものと言ふべきである。

 皇国史観は、恐らく藤原不比等によって編み出された天皇統治の正統性を主張するためのイデオロギーで、それが曲がりなりにも有効だったのは江戸時代初めまでだらう。幕末近くに国学者たちによって見直され、明治維新で再び採用されたのだが、実態として力を発揮したのは日本書紀以降の百年ほどと帝国憲法から敗戦までの六十年ほど、仮に倭国王帥升の時代が国家としての日本の始まりとすれば、およそ1900年のうちの一割にも満たない。そして、記憶に新しい方はこの国を滅亡させかけた。また、世界史的に見れば民主主義の時代になって久しい。日本は、普通選挙を画期とすれば九十年、現憲法からだと七十年ほどだが、それでも先の六十年より長くなった。

 その七十年を立太子前の小学生時代から過ごしてきた今上陛下が、恐らくは試行錯誤を経て持つに至った想念が「お言葉」に表されてゐる。それを否定するのは帝国憲法下なら不敬罪に当たるかもしれない。帝国憲法を奉ずるはづの者にとって、それは大きな矛盾であり、どう釈明するのか少なからぬ興味がある。今不敬罪はなく、天皇や皇族を批判するのも表現の自由として保護されるが、もしそれを持ち出すならご都合主義でしかない。 

 私は、天皇や皇室を敬はなければならないとは思ってゐない。だから、不敬罪に当たるやうなことを言ってはいけないとも思はない。あくまでも主張の内容が適切かどうかを問題にしてをり、私のものが適切で譲位否定がさうではないと考へ、その根拠を示したつもりである。なを、今上陛下は尊敬に値する人物と思ってゐる事を付け加へてをく。
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 天皇の譲位に関して、男系男子継承派の旗頭の一人である百地章氏が、この人にしてはまともなことを書いてゐた。詳細はここだが、結論だけを紹介すると、以下の通りである。

 即ち、高齢による譲位を認める、その方法は、①皇室典範に「天皇は特別措置法の定めるところにより、譲位することができる」といふ一項を入れ、②「天皇は、高齢により公務をみずからすることができないときは、皇室会議の儀を経て、譲位できる。譲位があったときは、皇嗣が直ちに即位する。」 といふ趣旨の条文を盛り込んだ特別措置法を作る、といふものだ。

 これは、私の考へである「典範の改正で対応する」に(譲位の条件も含めて)かなり近い。違ふのは、典範の改正を最小限にとどめ、あとは特措法によるといふ点だが、一つ不明なのは特措法が時限立法なのかどうかといふ点だ。論旨からは時限ではなささうに思はれるが、その点をきちんと書いてほしかった。

 さてをき、筆者は元々譲位には反対だった。それは新旧皇室典範をその制定の経緯を含めて支持するからだが、8/8の「お気持ち表明」によって意見を変へたとの事だ。かういふ姿勢は好ましい。男系男子継承に固執するのはいただけないが、評価を少しだけ上げた。
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ネット版時事通信に、「生前退位」に関する動きの報道があった。それによると、政府は条文に退位の時期を明記する方向でで調整を進めてゐるさうだ。

 特別法で対応することを前提として有識者会議を設立した、といふことまでは知ってをり、それには疑問があるのだが、この記事はさらなる疑問を生み出す。といふのは、有識者会議の第一回会合が17日に開かれるとも書いてあるからだ。

 もしこの記事の通りなら、有識者会議は政府の考へを追認するだけのものといふことになる。有識者会議はある方針のもとに設置されるものなので、おおまかな結論が先にあるのは必ずしも不自然ではない。しかし、会議の前に条文の具体的内容にまで踏み込むのは行き過ぎではないだらうか。

 もう一つの疑問はまさしくその内容だ。「今上天皇は平成〇年に退位する」といふ条文を作る方針とのことだが、これは一種の強制と言へる。もともと、天皇は自発的な退位を望まれたはずである。それは時期を含めてのことで、自らが象徴としての務めを十分に果たせないと判断した時に退位したい、といふのがあの「お言葉」の核心だった。だから、その判断をされた段階で皇室会議の承認を経て退位といふのが自然な対応だらう。仮に平成〇年が30年だったとして、もし29年にさう考へたならあと1年無理を強いることになるし、さう考へる前に平成30年が来れば、意に反しての退位となってしまふ。あるいはまた、不幸にしてその前に崩御、あるいは人事不省といふ事態もないとは言ひ切れない。いづれにしろご意向に反するわけで、ちょうどその年に退位を決断されることの方が確率が低いと言ふべきだらう。

 ついでながら、昨日の国会中継を見たのだが、細野氏(民進党)がこの件について質問してゐた。その答弁で安倍首相は「退位」といふ言葉を使はず、細野氏が再度確認してやうやく「退位をふくめて・・・」と言った。これも、今上天皇に限って特別法で退位を認めるといふ前提からすると不自然な答弁だ。思ふに、安倍個人は生前退位に反対なので、自分の言葉としては議事録に残したくないと考へたのではないだろうか。

 とにかく、この件を巡る政府の対応には頭をかしげさせられることが多い。
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 8/22に、内閣法制局が「生前退位を制度化するには改憲が必要」と指摘してゐることがわかった、といふニュースが流れたさうだ。私はそのことを今日あるサイトで知ったのだが、「何を馬鹿なこと言ってるんだ」と思った。

 8/8にも書いたが、皇室典範の改正で行うのが自然な対応だ。特例法といふ意見もあるやうだが、それも適切ではない。

 このニュースの表現は、法制局からリークされたことを示してゐるが、その理屈は以下のやうなものらしい。

 ①天皇の地位は国民の総意に基づくのだから、天皇個人の意志で退位するのはそれに反する。
 ②今上天皇に限って認めるのなら特例法による対応が可能だ。

 まづ①についてだが・・・国民の総意とは何かといふ事が問題になる。上の理屈では、天皇の意志がそれを超えることになると考へるのだらうが、国民の総意とは、通常法律に表れる。つまり、選挙によって構成される国会で決められる法律が、結果として総意を形作るわけだ。だから、典範の改正によって退位が可能になれば、それが国民の総意である。もし審議の結果さういふ改正が成立しないなら、改めて現行典範が総意であることが確認され、退位はできない。

 また、いはゆる世論も総意の一つの形と言へるが、それは制度化されたものではない。大規模な世論調査によって退位が支持されても、ではどうぞご退位を、とはならない。国民投票なら可能だらうが、さういふ規定はない。法制局は、天皇が退位を望んだ場合には国民投票にかける、といふ改正を言ってゐるのか?「制度化するには」とのことだから、明らかにさうではない。

 次に②であるが、寿命が延びた現代、病気や事故などから最大限に守られてもゐる天皇が、かなりの高齢まで生き続けるのは相当確率の高い事であり、今の天皇に限るのは実態に即してゐない。将来の天皇も同じ事を望んだら、その都度特例法を作るのだらうか。それなら典範で制度化する方が安定的で望ましい。定年制のやうに、「退位しなければならない」といふ趣旨の改正ではないのだ。


 以上は、憲法・法律を少ししか勉強してゐない私の私見だが、大きな誤りは犯してゐないはずだ。それどころか、高校生でもわかる程度の常識に近いとすら思ふ。それが専門家の集まりである内閣法制局にわからないとは・・・ちなみに、ネット上では改憲不要が通説とされてゐる。ただし、②については、法理論上誤ってゐるわけではないから、選択肢としてはあり得るが適切でないといふだけである。

 とすれば、なんらかの政治的な意図が隠されてゐると勘ぐるのが大人の常識だらう。ではそれは何か。あるサイトでは、天皇を元首として「国民の総意」の上位に置く意図だとしてゐた。これは帝国憲法の天皇像に少し近く、いかにも安倍政権が考へさうなことである。しかし、そこまで言へるのか、私にはわからない。現段階では、どう改正するのかが示されてゐないことでもあるし・・・。

 それより、仮に当たり障りのない第1・2条の改正であったとしても、改憲の経験をすることで、将来の本格的改憲への地均しとする意図ではないだらうか、と私は考へる。いはゆる「お試し改憲」だ。


 さてをき、実際には、近々有識者会議を設置して特例法を軸に検討する、といふ流れにあるらしい。それが事実なら、あまりほめられたことではない。私見によれば適切でないからだ。ただ、もし典範改正で対応するなら、女系天皇のことなども検討せざるを得なくなるといふことを考慮してゐるのかもしれず、それは一応理解できる。その件を盛り込むと、議論沸騰で決着がつきにくいと予想され、間に合はない虞があるからだ。といふより、男系男子論者の安倍晋三としては、そこに踏み込みたくないのだらう。一連の動きには、さういふ諸々の背景があるものと私は考へる。

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丸山恒平

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1949年1月生まれ、還暦を期にブログを始めました。記述することは多岐にわたります。
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