1~2世紀のものと推定される硯の破片が見つかったさうである。しかも二つめとのこと、場所は伊都国に比定される地域であり、従来3世紀ころからと考へられてゐた文字の使用が100年ほど早まったことになる。

 私は、文字の使用は3世紀頃からといふ通説を知らず、4~5世紀ころだらうと漠然と思ってゐた。とはいへ、一応の根拠はある。

 万葉集の冒頭の一首(こもよ みこもち・・・)は、雄略天皇の歌とされてゐる。それは定かではないらしいが、ともあれ彼は5世紀後半の大王であり、万葉集編纂のとき、すでに書かれたものとしてあったと考へられる。また、雄略は有名な倭王武の上表文を書いてゐる。その前の四人の大王も遣使を送ってをり、その際も何らかの文書を携へてゐたかもしれない。だから、5世紀初めには漢文を書けるやうになってゐたのではないかと推測してゐたのだ。

 今回の記事には、魏志倭人伝に、伊都国が外交文書を交わしてゐたといふ記述があると書いてあった。それは知らなかったのだが、であれば当然漢文を書けたことになり、硯の発見でそれが裏付けられた訳である。

 硯があれば、墨も筆もあったに違ひない。初めは大陸からもたらされたのだらうが、そのうち国内で作るやうになったと思はれる。してみると、卑弥呼が親魏倭王の印をもらった239年は、とうに漢文の読み書きができてゐた時代といふわけだ。さういふことについてきちんと考へたことはこれまでなかった。高校時代に日本史で習ったが、読み書きがどの程度だったかの説明はなく、単に史実として覚えたのだった。

 さてをき、では万葉仮名といふ使い方がいつ頃現れたのか、といふことに関心が移る。「こもよ みこもち・・・」が本当に雄略の歌なら、5世紀後半には使はれてゐたことになる。それと、訓読みがいつから行はれたかも気になるところだ。柿本人麻呂の歌には「東」や「野」などが訓読みで使はれてゐるから、飛鳥時代には一般的だっただらう。

 そもそも、漢字を習得して「山」「海」「空」の意味を知れば、「やま」「うみ」「そら」と読むことを思ひついても不思議ではない。さらに頻繁に使ふ動詞にも訓読みが適用され、日本語を書くことを試し始める。助動詞や助詞は表しやうがないが、そのうち音を借りることを思ひつく。まあ、そんな順序で万葉仮名が成立するのだらう。稲荷山の鉄剣の銘文が万葉仮名と漢文の混合のやうな文体だったことを思へば、思ひの外早いのかも知れない。
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 26日夜、NHKで諏訪の御柱祭りをやってゐた。七年ごとの4月2日に行はれる祭りで、今年はその年だった。

 七年に一度といふのは知らなかったが、坂で大木を滑り落とすシーンは時々TVで見たことがある。その意味など全くわからなかったが、今回の放送で詳しく知ることができた。そもそも、諏訪大社の建物は四本の柱で囲まれてをり、その柱を七年に一度立て替へるのが御柱祭りで、伊勢神宮や出雲大社の遷宮と同じ意味のやうだ。

 で、その柱となるモミの大木を森で伐採し、神社まで運ぶのだが、坂を滑り落ちるのはそこが通り道だからなのだった。なを、諏訪地方にはたくさんの神社があり、それらすべてが4本の柱で囲まれてゐる。そしてやはり同じ日に立て替へるのだが、小さな社のものは当然柱も小さく、子供たちが主役になる。


 さて、ここからが本題、記紀の国譲り神話に関係する。高天原から葦原の中つ国を譲れと言はれた大国主命は、息子達の意見を聞く。まず事代主神(ことしろぬしのかみ)が受け入れるが、もう一人の建御名方神(たけみなかたのかみ)は使者である建御雷神(たけみかづちのかみ)に力比べを挑む。しかし、敗れて逃げるのだが、諏訪湖まで追いかけられたところで、この地から出ないと約束して命を保証される。大国主命はある条件をつけて承諾するのだが、さてをき建御名方の降伏の地がなぜ諏訪湖なのか、これには何の説明もない。


 諏訪は縄文文化を最後まで維持した地域だった、といふことが近年の研究でわかってきたさうだ。その理由は黒曜石を豊富に産出したことだ。諏訪の黒曜石は石器の材料として列島各地で使はれた証拠が残ってをり、各地との交易で富を蓄積した諏訪は縄文文化の中心地として栄えたと考へられる。稲作を基礎に置く弥生文化が九州から列島全域に広がる中で、諏訪はそれを拒み続けたらしい。しかし、ついには弥生文化を受け入れることになる。

 諏訪にはモレヤといふ偉大な神がゐたが、建御名方がやってきて彼と争ひ、最終的に敗れるのだが、和解に近い形で収束したとされてゐる。それは、縄文文化を残しながら次第に弥生文化に同化していったことの反映と考へられる。そして、縄文文化の根幹だった森の恵みへの感謝を、巨木に神が宿るといふ信仰に昇華させたことが御柱の祭りとして今に伝へられてゐるわけだ。


 ここで、建御名方が諏訪で降伏したことの意味がやうやくわかってくる。つまり、高天原は弥生文化の中心であり、それが勢いを増して列島を席捲する。縄文文化の範囲は次第に狭められ、諏訪が最後の砦となるのだが、そのことの神話的表現と考へられるのだ。してみると国譲り神話は、天皇家が君臨することの根拠であると同時に、縄文から弥生へといふ大きな時代の移り変はりを表したものでもあったわけである。

 ただ、記紀が編纂された時代、さういふ認識があったとはとうてい考えへられない。だから建御名方の降伏が諏訪湖でだったのは偶然かもしれない。だが偶然にしてはできすぎてゐる感じが否めない。それをどう考へるか、新たな難題ではある。
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 古代史が好きで、その方面のいろいろな本を読んでゐるが、それには小説も含まれる。「天翔ける女帝 孝謙天皇」(三田誠広)はそのうちの一冊で、奈良時代にはさほど関心がなかったのだが、同じ著者の「炎の女帝 持統天皇」を読んだ関係でこれも読んでみたのだ。


 孝謙天皇は一度退位して上皇になり、その後ちょうそして称徳天皇となる。上皇時代の君主は淳仁天皇といふのをこの小説で知ったのだが・・・。

 さてその淳仁天皇、天武天皇の孫といふことでちょっと頭が混乱した。孝謙・称徳はたしか奈良時代なかば頃と記憶してをり、壬申の乱から1世紀近く後に、その主役の孫が天皇になる?そこで系譜を確かめてみた。

 孝謙は、父系をたどれば聖武天皇、文武天皇、草壁皇子、天武天皇となり、天武の玄孫である。そして淳仁の父は舎人親王、その父は天武だ。孝謙の生年は718年、淳仁は733年とわかった。すると、天武から見て淳仁は、玄孫である孝謙より15歳も若い孫といふことになる。天武の生年は不明だが、630年代の前半と思はれる。であれば、淳仁とはほぼ100歳の差がある。孝謙とは85歳くらいか。

 ついでに、聖武は701年、文武は683年、草壁は662年の生まれだった。舎人親王は676年、淳仁との年齢差は57歳もあるから、驚かされる。当時の天皇家は総じて早婚、子をなすのも早かったが、高齢になっても子ができたわけだ。  


 ところで、孝謙は天武の玄孫であると同時に、天智天皇の来孫(五代あと)でもある。草壁の母は天智の娘である持統天皇だからだ。天武は比較的晩婚だったが、兄の天智は早婚で、626年生まれだから孝謙との差は92年しかない。

 称徳の次は光仁天皇だが、彼は天智の孫で709年生まれだ。皇位に就いたのは770年、61歳といふ高齢だった。天智の立場でいへば、やはり玄孫(聖武)より若い孫といふわけだ。ちなみに、この光仁天皇以降、皇位は天武系から天智系に移る。


 早婚でしかも一夫多妻だったから、次々に妃を娶り、当人さえ元気なら孫に近い、あるいは孫より若い子ができても不思議はない。それが繰り返されて、玄孫より若い孫が出現した・・・さういふことが改めてわかった次第である。

 
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 明日香村に小山田(こやまだ)遺跡といふのがあり、そこでとても大きな方墳(一辺50m)跡が発掘された。明後日現地説明会があるさうだ。

 解説した専門家によれば、舒明天皇の墓である可能性が高いが、他に蘇我蝦夷の墓といふ説もある。舒明天皇の墓は二度作られ、二度目のは判明してゐるとの事、今回発見されたのは初めのものといふ解釈だった。

 舒明の墓のことは知らなかったが、蝦夷と入鹿親子は寿陵を作ってをり、それを「大陵」「小陵」と呼んだことが天皇に対する不遜、とされてゐる。解説者によれば、「小陵」と思はれるものはすでに発見されてをり、そこに近い場所にあるので大稜かもしれないが、反逆者として死んだので大きな墓ではなく、小さい方に入鹿とともに葬られてゐると考へられる。従って蝦夷の墓説には与しないといふ意見を述べてゐた。

 これを聞いて、それならやはり「大稜」ではないのかと思った。実際、「小稜」には二つの遺体があるさうで、入鹿との合葬らしいが、大きさや位置からは「大稜」、但し被葬者のゐない墓といふ解釈が自然なやうに思へるのだ。


 さてをき、大発見であることは間違ひないわけで、今後の研究でどんなことが判明するかが楽しみである。
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 纏向遺跡でまた新発見があったという。数年前「卑弥呼の宮殿か?」と話題になった建物群の36m東側に、それらと関連すると思われる建物跡が見つかったのだ。また、興味深いことに、付近には少し時代が下った建物跡もあり、初期ヤマト政権も継続してこの地を利用していたと思われるとの記事もあった。これはきわめて重要なことではないだろうか。

 つまり、仮に纏向が邪馬台国の所在地であり、初期ヤマト政権が同じ地域に拠っていたのならば、大和朝廷が卑弥呼と邪馬台国を知らないはずがない。すると、日本書紀が卑弥呼と邪馬台国について沈黙していることの意味が見えてくるわけだ。おそらく、滅ぼしたのだろう。大和朝廷としては、比較的穏やかに建国されたことにしたいから沈黙したというわけだ。もっとも、神武東征は戦闘を伴っているが、最終的にはニギハヤヒが、抵抗する部下のナガスネヒコを自ら討ってイワレヒコに帰順するので、一応「比較的穏やか」といえる。

 ひょっとするとニギハヤヒとは、トヨあるいは彼女の後継者を天孫降臨イデオロギーに沿うよう脚色したものかもしれない。

 仮にそのシナリオを採用するなら、ヤマトの建国は、どこか(日向?)からやってきたグループが大和にある首都を叩くことで倭国を滅ぼし、首都をそのまま利用して我こそはこの国の主なりと宣言した、ということになりそうだ。そのグループは、もともと連合王国としての倭国の構成員だったかもしれない。また、日向などではなく、もっと近くにあった国かもしれない。崇神が四道将軍を派遣している事に鑑みれば、近いほうが納得しやすい。崇神は実際の初代天皇だという説が有力だが、それとも符合させられる。


 あくまでも仮説にすぎないが、一つのあり得る形ではないだろうか。
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