あるきっかけで薪ストーブを思ひ出し、次々に連想が起きた。物心ついた頃、我が家の暖房は薪ストーブだった。燃料の薪は長さが30センチほど、断面はほぼ三角形で、一辺10センチほどだったと思ふ。それは、さういふ長さで直径20センチくらいの円柱形のものをマサカリで割って作られる。私も小学校3~4年からやった。その円柱形のものは、90センチくらいのものを丸鋸で三等分するのだが、それは専門業者がやった。

 この薪を切る業者は、冬支度の頃にどこからともなく現れ、各家庭の庭先などで作業をしてゐた。小学生になった頃にはさういふことが分かってゐたやうだが、これを飽きもせず眺めてゐた。エンジンを始動させると、その回転がベルトで鋸の中心軸に伝はり、多分エンジンの2~3倍の速さで鋸が回る。その鋸に向かって薪を押し進めると、キーンといふ金属音を立てながら薪が切れていく。完全に切れると、エンジン音だけが響く。これを繰り返すわけだが、私や幼馴染みは「チードンドン」と名付けてゐた。「チー」が薪を切ってゐる時の音、「ドンドン」がエンジン音である。おそらく簡単な2サイクルエンジンなので、さういふ音の印象だったと思はれる。

 さて、切断する前の90センチほどのものがどこからどのやうに運ばれてきたのか、これが全く分からない。まあ、燃料店から買ったのは間違ひないので、問題は運搬手段である。当時、四輪トラックは稀にしか見かけず、オート三輪が活躍した時代だったが馬車もかなり使はれてゐた。しかし、いづれにせよ薪を積んだ馬車やトラックを見た記憶がないのだ。

 考へられるのは、学校に行ってゐる時間帯に運ばれてゐたといふ事だ。一応納得できるものの、ほとんどの家が薪ストーブなのでかなり頻繁に運んでゐたはづなのに、一度も見た事がないのはやはり不思議である。また、切断前のものを家で見た記憶もない事に今気づいた。もし記憶が正しければ、長いものが到着すると同時に丸鋸業者が「チードンドン」をやった事になる。であれば、業者は「どこからともなく現れる」のではなく、薪の運搬とセットで燃料店からやってきたのだらうが、本当にさうなのか・・・。

 かういふ場合は8歳年長の兄に聞いてみるのがよく、先日電話してみたが、やはり運搬してゐるのを見た記憶がないさうだ。また、不確かながら、丸鋸業者は地域を流して注文に応じてゐたといふ記憶だった。であれば、ある期間長いものが置いてあった事になる。父母ならすべて分かるはづだが、残念ながらもうこの世にはゐない。
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 今朝のTV番組「サタデープラス」で、「おもちゃの歴史で振り返るニッポン」といふコーナーがあり、野球盤が取り上げられてゐた。

 1974年に発売されたものが、10万でヒット商品とされるおもちゃ業界で300万台といふメガヒットになったといふ。「あれ?もっと前からあったぞ」と思ひながら見てゐると、初代は1958年の発売で、74年のものはある機能を追加したとの事だった。

 1958年の私は4年生だったが、当時「野球ゲーム」といふので遊んだ。自分でを持ってゐたのか、いとこの家にあったのか、後者のやうな気がするが、それは野球場をかたどったボードゲームで、攻撃側が二つのサイコロを振り、出た目によってヒットとかアウトとかホームランとかになる。ランナーが出るとバントや盗塁などを宣言する事ができ、やはりサイコロで成否が決まる。それを繰り返していくのだが、要するに双六を野球風に複雑化させたものだった。

 そのうちに野球盤といふものを知り、欲しいと思ったが親にねだる事はしなかった。ところで、隣家に父の後輩の若い一家が住んでをり、そこには私より三つか四つ下の男の子がゐた。しょっちゅう行き来してゐたのだが、ある時そこに野球盤が登場した。それがいつだったか定かではないが、とにかく私はあこがれの野球盤で遊ぶことができたのだった。ちなみに、その家ではTVも我が家より早く購入した。

 ところで先ほどの「ある機能」とは、何と!「消える魔球」だった。消える魔球は、「巨人の星」の星飛雄馬が編み出した「大リーグボール2号」の別名で、漫画で登場したのは多分70年頃だったと思ふ。なぜ消えるのかが男子の間で話題になったことをよく覚えてゐる。野球盤での消える魔球は、ホームベースの部分が陥没してボールがそこに落ちる仕掛けだった。絶対に打てないので、子供たちの間では「10球に1球」などのルールができていったさうだ・・・なるほどね。

 さておき、情報番組から五十数年前を思ひ出した次第である。
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 私は高校1年の終わりに留萌市から小樽市に引っ越した。人口が3万台前半の小都市から20万弱の中都市への移住は何かと新発見をもたらした。その最初のものは高校がたくさんある事だった。留萌には一つしかなかったが、その一部である工業科が独立して、私が進学した時に二つになった。しかし、工業科新設の際すぐそばに建てられた別棟の校舎がそのまま使はれたこともあって、高校が二つといふ感覚はあまりなかった。

 小樽には道立だけで五つの高校があり、さらに私立が三校あった。人口比を考へると特に多いわけではないのだが、それは後に気づいた事だ。当時、公立は小学区制で、住所によって行く学校が決まってをり、私はC高校の編入試験を受けた。落ちたら私立に行かねばならず、経済的につらい事になるのだったが、幸い合格できた。余談だが、受験者は10名で何名採るかは明らかにされてゐなかった。私は、全員の顔つきをみて枠が6人なら大丈夫と勝手な見通しを立てたが、結果は4名だった。

 さて、クラスにKといふ生徒がゐた。かなり成績の良い男だったが、ある日担任が「K君は今日からO君になりました」と皆に言った。それを聞いた私は、両親が離婚して旧姓に戻った母親と暮らすことになったのだらうと思った。彼とは、クラスメートとして普通に会話があったが、それを確かめることははばかられた。

 真相を知ったのは卒業から数十年後のことである。その頃の私は、校区の境界がどこにあったのかについて気になってゐた。たまに会ふクラスメートや他校の出身者に尋ねる事を繰り返し、次第にわかってきてゐたのだが、ある時Aといふクラスメートが総合的に教へてくれた。その中でタイトルに関係する事は・・・

 成績の良い子供の親の多くはC高校に行かせたがったし、本人もさう考へた。なぜなら、C高校は旧制小樽中学の後身で、所謂名門校だったからだ。しかし、小学区制では住所に制約がある。そこで校区外のさういふ中学生は、一時的に住民票を移してC高校を受験した。あいつもあいつもさうだった。とはいへ、当該地区に親類などがゐる必要があり、断念した者も多い。そして、「あいつ」たちの中で最も制度に忠実だったのが件のOで、彼は母方の叔父の養子になってC高校を受験したのだった。そして2年かそこら経って元に戻した。それがKからOへの変更の真相だったのだ。「忠実」といふのは、住民票さえ移せれば、下宿のやうな形でも、あるいは実際にそこに住まなくてもよかった(らしい)のに、養子といふ面倒な手続きを踏んで万全を期した事を指す。

 3年に進級の際クラス替へがあり、別のクラスになったOとはそれ以来接触がなかったが、卒業40周年の同期会で会へ、当時の推測を話すと楽しげに笑ってゐた。41年間の空白は一瞬にして消え去ったのだった。

 付記するが、私がC高校に行ったのは全くの偶然である。父は教育に熱心だったが、校区の事など全く知らないまま居住地が決まってゐたからだ。しかし、C高校はとても良い学校で、3年C組は素晴らしいクラスだった。その1年間は、私の人生の中で輝きに満ちてゐた時期の一つである。

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 小学生時代の話である。学校給食はなく、皆弁当持参で登校した。学習雑誌を購読してをり、それで給食といふものを知ったのだが、遠い世界の事といふ感じがしてゐた。ただ、食べるまでに時間がかかるやうなので、せっかくの昼休み、遊ぶ時間が減るなあと思った事は覚えてゐる。

 4年生になったとき、牛乳給食といふものが登場した。4時間目の途中に、どこからか牛乳が届く。特に配給の係はをらず、昼休みになると、各自がケースから1本ずつ持ってきて弁当と一緒に飲んだ。今では少ししか見かけない180mlの瓶入り、丸い紙の蓋を外すための小型の千枚通しが先生の机にぶら下がってゐたが、大半は爪で取ってゐた。

 不思議だと思ったのは、先生が教へてくれた牛乳の飲み方である。曰く、噛むやうに飲みなさい。思へば、それまで牛乳を飲んだことがなかったやうな気がする。家では日曜の朝はパン食でトーストだったが、両親は紅茶を飲んでゐた。子供たちも何か飲んだはずだが、覚えてゐない。牛乳ではなかったなあ・・・、紅茶を飲んだかもしれない。牛乳配達が普及したのはもっと後で、多くの子供はあまり牛乳を飲んでゐなかったと思ふ。だからこその指導だったのだらう。ともあれ、飲み物を噛むやうに・・・とはどういふ事かと思ったが、初めのうちは素直に従ってゐた。でも、間もなくばかばかしくなってゴクゴク飲むやうになった。

 子供は遊びの天才と言はれるが、当時、我々は牛乳瓶の蓋で遊んだ。机に置き、パッと息を吹きかけてひっくり返すのだ。成功したらそれを自分のものとし、たくさん集めたら勝ち、一度に2枚ひっくり返すと歓声が上がった。ただし、女子はやらなかった。

 牛乳給食はいつまで続いたのか・・・卒業する頃にはなかったやうな気がするが、定かな記憶はない。中学ではなかったが、そもそも小学生だけだったのかもしれず、参考にはならない。ひょっとすると、牛乳配達の普及が関係してゐるかもしれない。

 費用のことも不思議だ。給食費を払ってゐないのだ。口座振り込みなどない時代だから、払ったのならしかるべき時に学校に持って行ったはずだが、確かな記憶としてそれはなかった。すると、公費で賄ってゐたことになる。義務教育が無償といふのは努力目標にすぎない時代で、教科書も学年の初めに学校で買ってゐた。なのに、牛乳だけとはいへ公費、つまり市の予算を使ってゐたとすれば、財政に余裕があったのだらう。私の4年生は1958年、東京タワーができ、三種の神器に先立ってヒット商品となった東芝の電気釜が発売された年である。長嶋茂雄のデビューもこの年だった。日本経済の高度成長が始まったのは1955年とされてゐるので、その効果に相違ないだらう。ちなみに、1955年からは神武景気、1958年に停滞し、なべ底不況とされたが、成長率はプラス、すぐに再び上向き、岩戸景気が東京オリンピックまで続いた。
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 ネット上の友人が猫のことを書いてゐた。

 野良猫が居ついたことや飼ひ猫のこと等が内容なのだが、その中に隣人が子猫を捨てたことが書いてあった。それで思ひ出したのだが、私も子猫を捨てたことがある。


 子供の頃、我が家では猫を飼ってゐた。飼い始めの記憶はなく、物心ついた頃にはすでに居たやうだ。餌は残飯だったが、時々ネズミを獲って母に褒められてゐた。私はその猫が好きで、一人の時は一緒に遊んでゐた。余談だが、母が夕食のために魚を焼き、それを食卓に並べて他の作業を台所でするとき、「猫が魚を獲るから見てなさいよ」と私に言った。私は、それが見張りをしろといふ意味であることに気づかず、黙った見てゐた。はたして猫は魚を咥へて走り去り、「猫が魚をとったよ」と報告すると、叱られた。しかし私は、「見てなさいと言はれたから見てたんだよ」と抗弁した。


 私はオスかメスかを考へた事はなかったが、実はメスだった。で、ある時4~5匹の子猫を産んだ。それを飼ふ余裕はなく、また他人に譲るといふこともなく、母は私と姉に捨ててくるやう命じた。その時の気持ちは覚えてゐないが、ミカン箱(だったか?)に子猫を入れ、それを抱えて近くの川に行った。そして岸辺で水に浮かべるとゆっくりと流れていったが、その時初めてかわいさうだと思った。子猫たちは、家に居るときからずっとミューミュー鳴いてゐたが、川の流れに乗ってもやはり鳴いてゐた。

 途中で誰かに拾はれたのか、4~5km先の海まで出たのか、まったくわからない。拾はれなければ、いづれ溺死か餓死しかない。その時は何も考へず、ただやるべきことをやり終えたといふ感じだったが、かわいさうだと思ったのは、漠然と死を意識したからかもしれない。その程度の幼さだったのだが、誰かに拾はれて生き続けてくれればよかったと、今にして思ふ。

 親猫もいつの間にかゐなくなってしまった。死んだのか家出したのか、それも覚えてゐないから、2年生くらいの時期だったらうか・・・。
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丸山恒平

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