「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」

 この狂歌は高校の日本史で知り、うまいものだと感心したのだが、その時以来、ペリーが率いてきた艦隊は4隻の蒸気船だと思ってゐた。しかし、実際には2隻だった。確かに黒船は4隻だったのだが、うち2隻は帆船だったのだ。

 その事を知ったのは、佐藤賢一の小説「ペリー」によってである。幕末は数知れないほどの小説やドラマで描かれてゐるが、アメリカ側の視点でのものはほとんど知らない。実際にもわづかしかないと思はれるが、これは私が知る唯一の作品だ。ひと月前に図書館で見つけ、借りてきたのだが、あまり面白くなく、期限の2週間で1/4くらいしか読み進めなかった。章立ては三つで、「アメリカ」「アジア」ジャパン」となってをり、その感想は「アメリカ」の部分だったが、「ジャパン」を読まずに返却するのは意に染まないので、再度借りて読破したのだが、やはり「ジャパン」は面白かった。

 さて、ペリーは10隻以上の艦隊で来るつもりだったらしい。当時アメリカは、インド洋から中国にかけて東アジア艦隊を展開してゐたといふ。その一部を日本に派遣することとし、司令官にペリーを指名したのだが、アヘン戦争や太平天国の乱の影響から彼の要求を大幅に下回る4隻になったのだった。ペリーは、大艦隊で江戸に乗り込み、威圧的に開国を迫るといふ戦略を立てたのだが、出鼻をくじかれる格好になった。しかし、4隻でしかも半分は帆船といふ陣容でも江戸幕府を驚かせるには十分だった事になる。

 ところで、ペリーは長崎が唯一外国に開かれてゐたのを知ってゐたが、そこに入ると、オランダの干渉を受けかねないので、いきなり江戸を目指したのだった。ついでながら、私はペリーが太平洋を横断してきたものと思ひこんでゐたのだが、実際は東海岸から所謂インド航路で上海へ、そして琉球に立ち寄り、さらに小笠原諸島を経由して江戸湾に向かったのだった。スエズ運河もパナマ運河も未開通の時代なので、考へてみれば当然だったが、学校で経路を教へられた記憶はない。

 ともあれ、浦賀で初めて現地の役人と交渉し、親書の受け取りなどは長崎以外ではできないといふ当初の返答から、ここで受け取るといふ譲歩を得る。ただし、受け取るだけで、それ以外のことはできない。ペリーは再訪を告げて一旦去る。

 そして翌年、条約締結といふ最終目標のために再訪するのだが、その会談の場所が横浜だった。その際、前年には間に合はなかった贈答品を渡す。たっぷりあったやうだが、目玉は蒸気機関車と電信設備だった。機関車は本国で走ってゐるものの1/4スケールだったが、周回線路を敷いて走らせた。日本人は、遊園地での子供のやうに喜んで乗ったらしい。また、電信は電柱を敷設し、1マイルの電線を引いて、日本人に通話させたさうだ。

 それらの「お土産」については、これまで全く知らなかったので新鮮な驚きだった。更なる驚きは、日本の知識人は蒸気機関の原理を知ってゐたといふ事だった。ペリーも驚いたらしいが、オランダとわづかながら交流がある事や、それまでの現地見聞で日本の技術力や識字率の高さに気づいてゐた事から納得できた。そして、機械工業を導入すればさほど時間をかけずにアメリカに追いつくのではないかと予測する。

 さういふペリーの認識は、主要参考文献のトップに彼の「日本遠征記」が挙げられてゐるので、フィクションではないと思はれる。ちなみに、これは1948~55年の岩波文庫となってをり、元の出版物がいつかはわからない。また、20009年の翻訳も挙げられてをり、これは原典のおよそ150年後になる。 さておき、彼の予測は中らずと雖も遠からずと言へるだらう。WIKIによれば、1893年に初の国産機関車が製造されてをり、20世紀に入ると量産体制ができてゐる。さらに約30年後、満州で世界トップレベルの「あじあ号」が走る事になる。


 本の感想文のやうになってしまったが、蒸気船の数が「たった四杯」ではなかった事が面白くて「ちょっと面白いこと」のカテゴリーにした。
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 来年のNHK大河ドラマは「真田丸」、真田幸村が主人公といふが・・・

 真田の本拠地は信濃の上田城である。現在は長野県上田市で、そこには上田高校といふ学校がある。前身の旧制上田中学時代から上田城の一廓にあり、今(*)も水をたたえた堀を巡らしてゐるさうだ。その校歌はかう唱ふ。

   関八州の 精鋭を
   ここに挫きし 英雄の
   心の跡は 今もなお
   松尾が丘の 花と咲く

 これは、関ヶ原の戦ひに関はる真田父子の活躍を誇らしげに歌いあげてゐるのだ。つまり・・・

 家康は、会津で兵を挙げた上杉景勝を討つために東海道を下るが、それを見計らって西で石田三成が挙兵する。それを読み込んでゐた家康は、自身は東海道を引き返し、秀忠を中仙道経由で関ヶ原に向かはせる。そして天下分け目の・・・となるのだが、秀忠は開戦に遅れてしまふ。その原因が上田城での合戦だった。秀忠は、上田城に立て籠もる真田軍をみくびり、行きがけの駄賃にひねり潰してやらうとしたらしい。しかし、戦国時代有数の戦上手と言はれた真田の軍略に大いに手こずったのだ。


 上田市民が真田贔屓といふのは、思へば当然だらう。校舎がなぜ城の一廓にあるのかは知らないし、松尾が丘といふ地名も知らないが、それは私にとってどうでもいいこと、言ひたい事は、三百年以上前の快挙を地域の(おそらく)秀才が集まる学校の校歌に詠み込んだことの痛快さである。

(*)旧制上田中学出身の棋士、中山典之の著書「囲碁の世界」による。「今」とはそれが刊行された1986年である。あるきっかけでおよそ30年ぶりに再読し、この部分がとても気に入ったので記事にした次第である。
 
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 親族の範囲は六親等以内、と民法は定めてゐる(血族の場合)。これまで、それを深く考へた事はなかったが、ふと気づいたことがある。それは、六親等の血族とはほとんど会ったことがないといふ事実である。

 六親等といえば、親同士がいとこである場合が最も会ふ機会がありさうに思はれる。しかし、親のいとこといふのは意外とわからないものだ。私の場合、父のいとこは全く知らない。父の両親は北陸から北海道に移住した人なので、そのきょうだい、つまり父方の大おじや大おばすら知らない。母の両親も北陸らしいから同じことが言へる。「らしい」といふのは、母に、母の母がさうだと聞いたことがあるだけだからだ。

 次に会へさうなのは、いとこの孫だがこれには条件がある。つまり、かなり年長のいとこがゐる事、さらにその孫が比較的近いところに住んでゐる事である。私には父方にさういふいとこがいる。それは父の兄の子供で、一番上は23歳年長、一番下が6~7歳年長だ。多くは道内に住んでゐるが、彼らの孫はほとんど知らない。ただ、父の父が坊主で、その三代目が21歳年長のいとこであり、寺を継ぐといふ使命があるため、その孫つまり五代目には会ふ機会がある。とはいへ、これまで一度しか会ったことがない。

 それが唯一、六親等の血族と会った経験なのだが、数年後には寺に住むことになりさうなので、それ以後は結構増えることだらう。

 「唯一」と書いたばかりだが、実は以前にも会ったことがあるかもしれない。40年以上前の学生時代に、京都を含むあちこちを旅行したことがあった。その際、京都に近い瀬田で泊めてもらったところでの事だ。父に紹介されて行ったのだが、当時は遠い親戚としか教へられなかったと記憶してゐる。そこも寺で、住職が父のいとこだった可能性が高く、その子供たちと会ってゐるのだ。私より少し年長の兄と少し年少の妹、ほぼ同世代なので話があって楽しかったのだが、もし住職が父のいとこなら、彼らとは六親等の間柄といふことになる。


 ともあれ、一人か多くても三人しか会ってゐないわけである。翻って子供たちについて考へてみると、彼らも何度か寺に行ってゐるので現在の四代目、つまり六親等の血族には会ってゐるわけだ。これは先に挙げた親同士がいとこといふ関係になる。もっとも、それをはっきり認識してゐるとは必ずしも言へない気がする。


 「きょうだいは他人の始まり」といふ言葉があるが、いとこ同士といふのは、幼いころは会う機会が多くても、成長するにつれて疎遠になりがちだ。ましてその子供同士となれば、存在すら知らないことも大いにありさうで、親族といふ感覚は持ちにくいだらう。民法は明治32年の施行で、当時は大家族であり、六親等も比較的身近だったと思はれる。第四編(親族・相続)は昭和22年に全面改正されてゐるが、その当時もまだ大家族は生きてゐたから、憲法が変はっても親族の範囲は変更されてゐない。しかし、核家族といふ言葉すらあえて使ふ必要がなくなった現代、四親等に狭めても構はないやうに思へる。そもそも、親族であることが民法上どういふ効果をもたらすのかもよくわからない。通読した限りでは四親等以上離れると何もないやうに見えるのだ。まあ、それは本文の主題から離れるのでこの辺でやめておく。

 


  
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 東京に遊びに行った時のこと・・・高校の同期が集まって13名のミニ同期会になったのだが、終わった後、ある男が「冥土のみやげに銀座の店に連れて行ってやる」と言った。そこはすでに銀座だったが、焼鳥屋なので「いかにも銀座」という感じではなかったからだ。

 少し歩いて、彼の知っている比較的安い店に入った。しばらく歓談してからカラオケということになり、二曲目に「上海帰りのリル」を準備した。すると女の子が、「これ銀座の定番だよ」と言う。へえ、そうなのか・・・なんでだろう?60年も前のヒット曲が根強い人気を保っているのには、それなりの理由があるはずだ。しかしまあ、考えてわかることでもない。自分の好きな歌がたくさんの人に歌われていること、お世辞とわかっていてもうまいと褒められたのを喜ぶのみだった。


 改めて考えてみると・・・上海から帰国して「ハマのキャバレー」などを転々とするリル、そして上海時代を思い出しながら彼女を捜す男、そういう設定が銀座の雰囲気に合っているのだろう。してみると、銀座の女達も必ずしも定着しているわけではなく、時々飲みに来る男達も、戯れの恋に胸を焦がすふりをしているのかもしれない。


 ちなみに、初めはカウンター、少し後でボックスに移り、キープのボトルで90分ほどいて2万ちょっと(二人で)、というのが安い店とは・・・、店を出ると高級外車がずらっと路駐していたのも「これが銀座か」という感じで、確かに「冥土のみやげ」ができたと思ったことである^^

 
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今日のWBSで「出かけず消費」という言葉を知った。大震災で広がった自粛ムードで、外出を控える人が増えたのがきっかけだという。

 そこで便利なのがネットショップ、楽天の1~3月期は前年比120%だったそうだ。それとは別にセブンイレブンは、高齢者が多く店もあまりない過疎地に移動販売車を巡回させることにした。また、ある生協では、これまでの宅配サービスに、消費者に電話して注文を取って宅配するという形式を加えた。

 これらをまとめるキーワードが「出かけず消費」というわけだが、もう一つ「ご用聞き」というキーワードがある。解説の高橋進氏は、若者にとってはネットショップがご用聞きの変形になっており、高齢者などネットになじみのない人にとっては、リアルのご用聞きが復活しつつある、と話していた。移動販売車はとりあえずご用聞きをしないが、巡回先で要望を聞くことが考えられるので、該当することになるのだろう。


 ところで私は、都市に住んでいて車もあり、健康なのでご用聞きの世話になる状況ではない。しかし、時にはネットショッピングもするので、ご用聞きの変形を利用いていることになる。ならば私は若者か?とてもそうは言えないが、高齢者でもない。実年齢とネットショップ利用での擬似年齢を考えると、若者と高齢者の境目にいるということになりそうだ。高齢者と呼ばれる実年齢になっても、このことは変わらないように思える。
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