「学び舎」といふ出版社があり、中学校の歴史教科書を発行してゐるといふ。ほかの出版物は知らないが、その教科書を採択した学校に対して文書で抗議するといふ動きがあったらしい。抗議の理由は慰安婦問題に触れてゐる事で、さういふ教科書はこれだけだが採択したのは少数の私立学校だった。

 その方法は大量の葉書を送りつけるといふもので、詳しくは下の()内にリンクさせたページにある。いかにもありさうな話だが、学校に抗議するのは本来筋違ひだらう。その教科書は文科省の検定を通過した複数のうちの一つだからだ。慰安婦問題に触れてゐるのが気に入らないなら、文科省に抗議するのが筋である。

 おそらくかういふ事だらう。文科省に抗議しても門前払ひに近い対応をされると思はれるし、仮にきちんと対応しても最終的には拒否されるだらう。奇跡的に成功して次回の検定には通らないといふが起こったとしても、かなり時間がかかる。出版社に抗議するのは自由な言論に対する妨害だからできるはづがない。そこで採択した学校への抗議といふ形をとったのだらう。

 学校の判断を批判するのは自由だが、脅しのやうな文言で「抗議」するのはまともな批判ではない。それらの学校は圧力と感じ、自由な教育の抑制を懸念してゐる。その圧力に屈するとは思へないが、じわじわと影響を与へる虞がないとは言へない。(以上は二つあったリテラの記事で知った事を基にしてゐるが、二つ目にはNHK「クローズアップ現代」の内容紹介もある)

 かういふ動きの元になってゐるのは、戦後の歴史学、特に近代史学を「自虐史観」によるものとし、日本は正しかったとする考へ方である。それに対しては歴史修正主義といふ批判があり、現代における大きな思想対立の軸となってゐる。



 ところで私には、「自虐史観」を批判するネット上の友人がゐる。彼によれば、自国の歴史における負の部分を正当化するのは当然の事で、負の部分を負として捉へるのは心の病に冒されてゐるのだといふ。負の部分の正当化は、精神分析で言ふ防衛機制のうちの「合理化」に相当し、それがができないのは心の病、従って「自虐史観」を持つ者は心を病んでゐるといふわけである。

 私は精神分析や心理学の素人だが、少し勉強したり詳しい友人に尋ねたりして一応理解したところによれば、防衛機制は主に心の安定のために発動されるが、その態様によって肯定的にも否定的にも働き得る。従って、「合理化」すれば健全な精神状態でゐられると断定できるわけではない。また、心が安定してゐれば「合理化」を含めて防衛機制の出番はなく、「合理化」しない事が心を病んでゐる事の証明になるわけでもない。

 精神分析は難解だし、「精神分析事典」(小此木敬吾・北山修編)によれば、防衛機制の研究は発展途上らしく、諸説あって整理は未だ不十分との事だ。多少齧っただけの自分に上記(100%正しいといふ自信もない)以上の事は言へないが、精神分析の理論を歴史を見る態度に適用する事の是非については言へる。自国の歴史を自分自身の過去を見るやうに見る、といふ事はあっても不思議ではないが、それが当然の態度であり、従って心理学や精神分析の理論が適用できると考へるのは乱暴に過ぎる。と言ひながらも、敢て当該部分に限って適用すれば、負の部分を正当化しないからと言って心の病と「診断」する事はできないと考へるべきだらう。

 そもそも、自国の歴史を学ぶ(研究する)にあたって、負の部分を負として認識し、将来の参考にするのはあるべき姿勢であり、負の部分を正当化するのは、それに反する。もっとも、負の部分の認識が実は誤ってゐたといふ事もあらう。過去に正しいとされてゐた事が歴史学や考古学の進展によって誤りと判明し、訂正されるのは正負に関係なく時々あり、学問の成果として受け入れるべき事だ。しかし、例へば「大陸進出は侵略ではなかった」「南京虐殺はなかった」などといふのは歴史の捏造である。当時の日本は非難されるやうな事はしてゐないといふ先入観の下に、定説と少しでも違ふ部分を探し出し、それを針小棒大に言ふ事によって、その先入観があたかも正しい認識であるかのやうに粉飾してゐるのだ。「歴史修正主義」とされる所以である。

 件の友人は、さういふ事まで肯定してゐるわけではないが、負の部分に対して、「さうせざるを得なかった」「それなりの理由があった」などの正当化を積極的に肯定する。その正当化には相応の理解ができるが、国民としては正当化するのが当然でしないのは心の病、と断ずるに及んでは、心理学的知見(正しいか否かはさておき)を安易にに適用した暴言と言はざるを得ない。


 ともあれ、史観を要因とする思想対立は、今後も続くばかりか激化すると予想される。歴史修正主義に近く、明治憲法の方向に戻す改憲を狙ふ安倍晋三が首相を務めてゐる現在、その勢力は水を得た魚のやうであり、「学び舎」の教科書の件もその一つの現れだらう。まだ少数派であるとはいへ、一般大衆は声の大きい方に引きずられる傾向を持ってゐるから、安倍政権が更に長引くと少数派とは言へなくなるかもしれない。
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 105歳で亡くなったといふニュースが流れ、その18日から今日にかけて彼の業績などが紹介されてゐる。

 私は、100歳を超えてなほ現役の医師として活動してゐる、といふ事以外は知らなかったのだが、お陰で色んな事がわかった。大きく評価すべきなのは、予防医療分野での功績だらう。「成人病」を「習慣病」に変更する事を提唱し、ほぼ20年後に厚生省が「生活習慣病」を採用したさうだ。また、予防のための検査を推奨し、それが新聞記者によって「人間ドック」と名付けられた。その際、国会議員をターゲットにしたのは素晴らしい発想だと思ふ。休会中は時間的余裕があり、収入も多いし、当人たちも健康維持の大切さを知ってゐると考へられるのだが、それに気づくのは簡単ではない。あるいはアドバイザーがゐたのかもしれない。

 また、よど号ハイジャックの時に乗客だったさうで、その際死を覚悟し、生還してから自分の命を人のために使ふ事を決めたといふ。乗客はたくさんゐたが、さういふ決心をした人はおそらくわづかで、実践したのはさらに絞られるはづだ。やはり卓越した意識の持ち主だったと思はれる。

 前述の予防医療普及のために、「ライフプランニングセンター」を設立したのだが、その際笹川良一の資金提供を受けたといふ。問題のある人物の資金でも有効に使ふなら問題ない、といふ意見だったさうだ。60年安保のとき、全学連が田中清玄から資金援助を受けてゐた事を批判した共産党の狭量さと比較せずにはゐられない。まあ、違ふ要素もあるから一概に言へないのだが・・・。

 面白いのは、「74歳まではジュニア、75歳からがシニア」と言ふ分け方だ。私は常々、65歳からを高齢者とする区分けに異を唱へてゐるが、74歳までをジュニアとする事は思ひもよらなかった。日野原氏の方がずっと先進的である。この事で一遍に彼を好きになったが、遅きに失したか・・・。
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 ついさきほど見たTV番組で知ったことだが、イギリス王室のウィリアム王子とキャサリン妃がラジオ番組に出演したといふ。

 DJ番組なのだが、その日はチャリティマラソンに出る女性を応援するといふ企画で、ある有名人に出演を依頼したがスケジュールが取れなかったため、バッキンガム宮殿に連絡したところ、承諾してくれたさうだ。その女性には大変なサプライズで、視聴者にとってもさうだったが、とにかく王子夫妻が登場した。

 すると、DJは気軽に日常生活の事を質問し、彼らも気さくに答へてゐた。子供向けのTV番組を家族みんなで見るとか、カレーの出前を取るとか、一般人とさほど違はない部分が紹介された。そして、番組本来の目的である曲紹介を王子夫妻が一つづつやった。王子は驚くほどうまかった。妃は緊張してうまくしゃべれなかったが、ともあれ無事に終わり、私同様うまさに驚いた本来のDJが、自分が休みの日に変はってくれないか?とジョークを飛ばし、王子もジョークで答へた。


 イギリスの王室がかなり開かれた状態であるのは知ってゐたが、ここまでとは思ひもしなかった。日本の皇室ではとても考へられない。どちらがいいとかいふ問題ではなく、あくまでも文化の違ひに感嘆した次第である。もっとも、眞子内親王が大震災の年の夏休みに現地でボランティア活動をしたが、だれも気付かなかったといふ話をユーチューブで見たことがある。それはイギリス風に少しづつ近づいてゐるのを意味してゐるかもしれないが、一般国民がさうと気づきながら自然に接するやうになるとは思へない。将来さういふ日が来るのか、それは今のところわからない。
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 3日のダイヤモンドオンラインにかういふ記事があった。

 私はあまり映画を観ないが、この二つのタイトルは知ってゐる。もっとも、内容はほとんど知らない。筆者の岸博幸氏はよくTVに出てくるので知ってゐるが、彼によれば、二つとも映像が美しく、それがストーリーを差し置いて評価されてゐるといふ。そして、内容は軽いが映像の美しいものがヒットするのはスマホの影響である、といふのが記事の趣旨の一つで、その理由を次のやうに述べてゐる。

 :スマホを使い過ぎると、コンテンツを気楽に受け身で流し読みするのが当たり前となり、またテキストの読み方やコンテンツの鑑賞の仕方が気楽で快適な“浅い読み”ばかりになります。:

 映画に関しても、内容は軽く流して映像を楽しむといふ姿勢になるので、かういふ映画がヒットすることになるといふわけだ。


 テレビの普及が加速したころ、「テレビを見るとバカになる」といふ意見があった。誰が最初に言ったのか知らないが、受け身の状態でどんどん情報が流れてくるので、自分で考へる必要がなくなり・・・といふのがその理由だったと思ふ。中学生だった私は、ほぼ同意しながら観たい番組だけを見てゐた。

 それから半世紀、ネット時代になって検索すれば何でもわかるやうになった。しかも、スマホのおかげで「いつでもどこでも簡単に」わかる。さらに色んなアプリがあって、多くの人々がかなりの時間スマホをいぢってゐる。バスや電車の中で新聞や週刊誌を読む人は殆どをらず、スマホが取って代はった。

 そもそも、PCやスマホなど電子的に表示された文章と紙に印刷された文章では、読む際に脳の使ひい方が違ふといふ説があったと思ふ。その当否は分からないが、スマホで読む際は軽く読み流すことが多いといふのは何となくわかる。そして私としては、やはり「手間」を重視したい。例へば分からないことを調べるのに百科事典を利用する場合、その項目のある巻を手に取り、ページを繰ってそこに行きつく。もし百科事典を持ってゐなければ図書館などに行く必要がある。ウィキペディアなら30秒とかからずに目的の記述に行きつけるだらうが、手間をかけた分きちんと読むことになり、従って忘れる率も低いと思はれる。

 書籍や雑誌も、買ったり借りたりの手間がかかるし、買ふ場合はお金もかかる。居ながらにしてほとんどタダ同然で手に入るものより、手間やお金をかけて手に入れたものを大事にするのは当然で、それが情報や知識なら頭に残さうとするだらう。

 始終スマホをいじってゐることでさういふ能動的な作業から遠ざかるとすれば、岸氏とは少し違ふ理由ではあるが同じ結論が導けるだらう。といふか、少しアプローチが違ふだけで、同じことを言ってゐるのかもしれない。即ち、次の部分だ。

 :スマホを使い過ぎて、多くの人が知的な面で非常に怠惰になってきているのです。:

 これは、半世紀前に言はれた「テレビを見るとバカになる」の理由と、ほとんど同じだと思はれる。本当にバカになるのか、また「スマホ中毒」が蔓延して日米ともに将来が危ういのか、それは分からないが、「知的な面で怠惰になる」ことが好ましくないのは言ふまでもない。

 

 


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 今日の「初耳学」で、小学校の算数の事が取り上げられてゐた。表記の足し算の解答が減点され、正しくは「9」であると赤が入れられた、といふ事がネット上で話題になったさうだ。そんなバカなことがあるのかと驚いたが、林先生はどちらも正解とした上で、教育上の大問題として京大の森重文教授の意見を聞きに行った。この人の事は知らなかったが、フィールズ賞を受けた世界的な数学者だった。

 当然森教授も同意見だったが、流石に「できるだけ簡潔に」といふ条件があれば「9」が正解といふ補足をしてゐた。実はもう一つ、直方体の体積を求める問題の件もあった。公式は「たてx横x高さ」なのだが、それぞれの長さを書いた図を示した問題で、横xたてx高さの順で式を作った解答が不正解とされたといふものだ。

 林先生と教授との対談では、要するに教へる側が数学の本質をわかってゐないといふ結論だった。

 自分の小学校時代を思ひ起こせば、初めの問題についてはどっちでもいいと習った。今の教育は60年前より後退してゐるのだらうか。あとの問題については、さういふ例の記憶がないので何とも言へない。

 直方体といふものは、置き方を変へれば縦・横・高さは変はってしまふ。しかし、体積は変わらない。だから公式の表現は便宜的なもので、長方形の面積にも同じことが言へる。それを思へば、中学で習ふ「S=ab」や「V=abc」の方が本質的と言へるだらう。ひょっとすると、そこに算数と数学の違ひがあるのかもしれない。算数では「たて」「横」「高さ」といふ具体的なもので理解し、数学では抽象的な論理で事を進めるといふ意味だ。であれば、「たてx横x高さ=体積」は便宜的といふより重要なもので、順番を変へるのは間違ひとするには正当な理由があることになる。

 しかし、本当にさうか。想像だが、教室で「置き方を変へたらどうなるの?」と質問する子供がゐるかもしれない。教師はどう答へるのか。その都度たて・横・高さの値を入れ直せと言ふのだらうか。すると、体積は変はらないこと、結果として順番を変へても構わないと教へる事になる。

 また、算数でも、6x9=9x6 は習う。といふか九九で自然に頭に入る。桁数が増えても同じと習ったかどうかは定かでないが、習ったやうな気がする。ともあれ、この問題は式と計算結果の体積を問ふもので、単に体積を問ふより良い問題だが、掛け算は順番を変へても結果は同じと教へてゐるのなら、順が違ふことで誤答とするのはおかしい。それとも、たて横の理解ができてゐないから誤答なのか?それなら一応わかるが、子供は縦横高さ自体が相対的なものと認識した上で順番を軽視したのかもしれず、それを答案から読み取ることはできない。結論として、正当な理由とは言へない。

 初めの問題に戻れば、授業では、和が「9.0」になったら「9」だけでいいと教へてゐると思はれる。しかし、「9.0」ではダメと教へる事はあり得ない。件の解答が、誤答とはされず減点だった事もそれを示してゐる。数学と算数の違ひといふ視点を持ち込めば有効数字の概念が思ひ浮かぶが、それを教へないで小数を扱ふ算数では「9」も「9.0」も同じ値だ。従って「9.0」を減点する正当な理由はない。


 さて、今でしょ先生が教育上の大問題としたのは、森教授との対談でも話されてゐたが以下のやうな意味だ。未経験の問題に直面した時などに、最終的に頼りになるのは論理であり、算数や数学はその論理を学ぶためのものである。しかるに、論理より公式の字面を重視したり論理的に不適切な指導をしてゐるのは、子供たちの将来を危うくするものではないか・・・。私はかなり前に同じ趣旨の記事を書いたことがあり、全く同感である。

 
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