藤圭子の自殺からひと月ちかく経ち、彼女の旭川時代を取り上げた記事のある二つの地元月刊誌が発売されている。似た内容になっているが、取材対象が限られているので仕方がないだろう。それらを総合すると・・・


 彼女は岩手県で姉と兄が一人ずつの末っ子として生まれた。父は浪曲師で、母は盲目の三味線伴奏者だった。一家は彼女が3歳のときに渡道したが、しばらくは転々としたらしい。旭川にはわりと長く住んでおり、それは圭子の小学校中学年あたりから中学卒業くらいまでだった。

 家は極端に貧しく、畳のはがされた板の間に裸電球という生活だったという。父親は、浪曲だけでは不足なので左官の仕事もしたそうだ。従って学校でお金のかかる行事のある日は必ず休んだし、修学旅行にも行けなかった。しかし成績は良く、当時の担任によれば通知箋は5と4ばかりだったが、音楽だけは3だったそうだ。唱歌主体の授業には合わなかったらしい。

 中学に進んでもいつも学年10番以内だったというから、もっと環境がよければ更に上に行ける素質があったと思われる。副級長を勤めたが、級長だった男性の回想によれば、ずいぶん助けられたという。当時は男子がトップで女子がサブというのが当然だったが、ひと世代下れば級長を勤めたかもしれない。なお、中学の修学旅行は、積み立て金をなんとか工面できたらしく参加している。

 地元の神社祭ではのど自慢に出場し、それを聞いたある男性(現在70歳)は、この子は将来歌手として大成すると思ったそうだ。まさしくその通りになったのだが、その際に着ていた浴衣は模様なのか汚れなのか分からないような粗末なものだった・・・。ちなみに小学校時代、授業参観で彼女のいでたちを見た親たちが古着を集めて母親に贈ったことがある。親子は素直に喜び、翌日彼女は真っ白い靴下などで登校したという。

 当然高校に合格できる成績だったが、小学生のときには両親の流しに同行して投げ銭を見張り、中学からは自分も歌うようになっており、生活のために進学はしかなかった。そして岩見沢(確かではないらしい)でそういう暮らしをしていた頃、音楽関係者に見いだされて上京する。

 「新宿の女」でデビューしたときは17歳とされていたが、実際は18歳で、「演歌の星を背負った宿命の少女」というキャッチフレーズには17歳の方がふさわしかったらしい。


 なお、札幌で発刊されている月刊誌には、カルーセル麻紀の回想が載っている。それによると、二人は仲良しで、年上の麻紀はいろいろ相談事をもちかけられたという。


 総じて彼女は明るく責任感のある少女だったと思われるが、ある女性によれば、気むずかしさを感じさせることもあり、躁鬱の気があったのかも知れないとのことだ。ともあれ、最下層にいながら明るく強く生きてきた彼女ではあるが、そういう背景を考えればやはり「怨歌」がふさわしい。



 亡くなってしまったのは残念だ。しかし、阿部純子そして宇多田純子の命に限りがあっても、「藤圭子」は永遠に生き続ける。そして私の手元には、藤圭子が最も暗く輝いた時のアルバムがあるのだ。
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