日本人の「原罪」

 「日本人の<原罪>」という本(講談社現代新書)を書店で見つけ、タイトルに惹かれて読んでみた。著者は北山修と橋本雅之という人だが、北山はあのフォーククルセダーズの北山で、精神分析医をしているのは知らなかった。それはともかく・・・

 「原罪」はもっぱらキリスト教世界の言葉であり、我々日本人の「原罪」もクリスチャンに限られる話と思っていた。しかし、北山らはイザナギ(本書では「イザナキ」)の行為にそれを求める。つまり、イザナミを追って黄泉の国へ行き、見るなと言われたのに見てしまい、そのおぞましさに逃げ帰ってきたという行為だ。これは「見るなの禁止」(北山の造語)という世界各地にある神話のモチーフでもあるのだが、その禁を破った者への罰がなく、見られた者がそれを「恥」と感じて去ってゆく(イザナミは怒って攻撃するが)・・・というのが日本神話の特色だという。

 それは昔話にも継承されており、誰もが知っている鶴の恩返しやその類似形も同じパターンである。著者は、それを「原罪」とする。しかし、そういう見方は千年以上続いてきた日本人の意識にはなかなか取り入れられない、とも言う。北山は精神分析医として、自分の役割がなくなると死んでしまいたくなるという患者に「つう」の姿を重ねる、という治療方針を採っているそうだが、そこは専門的で難解だ。だからあまり深入りしないが、イザナギは子を産み続けることで死んでしまったイザナミにさらなる子づくり(国土作り)を、与ひょうはどんどんやせていくつうにさらに織物を要求する、そういうあり方が日本人の特徴で、それを考え直すことで世界や未来への指針を探す必要がある、という論理展開をしている。


 私としては、原罪の意味の違いが興味深かった。キリスト教世界での原罪は神に対する罪だが、古事記神話では人に対する罪になっている。もっともイザナミも神なのだが、イザナギと対等な神であり、絶対者ではないからそう言っても構わないだろう。与ひょうなどでは完全に人に対する罪だ。人との約束を破ることなど罪というほどのものではない、という感覚なのかもしれない。罪でなければ、罰がないのは当然と言える。それどころか、イザナギにおいては汚い世界に触れてしまったという被害者意識に転じ、その「穢れ」を「禊ぎ」によって洗い流してしまう。そしてさらに、その禊ぎから多くの神が産まれ、最後には三貴神が産まれるのだ。改めて考えると不思議な事ではある。

 現代でも、何かまずいことをすると責められて謝罪するが、しばらくすると「禊ぎは済んだ」ということになるし、過去の忌まわしいことも「水に流して」しまう。そしてよりよい状態に変わることも少なくない。良くも悪くもそれが日本人の行き方であり、簡単には変わらない。繰り返しになるが、それを承知の上で北山らは、イザナギの行為を原罪と認識し、つうの献身的奉仕から役割を終えて去ってゆくという行動パターンを変える、言うなれば新たな神話を構築することで精神病や世界と未来に立ち向かうことを提唱しているわけで、今までになかった視点からの指針としてうなづけるものがある。
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