司馬遼太郎思索紀行(NHK)より

 今日たまたま観たのだが、とても面白かった。日本人の精神の根幹にあるものは「公の意識」であるとし、その原型は鎌倉時代の板東武者の中にあり、そのまた元になってゐるのは平安時代の開拓農民であるとしてゐた。

 平安時代、朝廷や貴族が国を支配してゐたのだが、経済的な基盤は土地を所有してゐることにあった。重税にあえぐ農民には逃げる者が続出したのだが、彼らの一部が土佐の檮原(ゆすはら)といふ所に集まり、傾斜地を平らにして田んぼを作るといふ困難な土木作業に取り組んだ。それは成功し、現在も千枚田として稲作が行われてゐる。

 その子孫などが全国に散らばり、同様のことを行ったらしいのだが、彼らは次第に力をつけていく。「力」には武力も含まれ、やがて鎌倉幕府として結実する。幕府は各地の領主に本領安堵の証文を発行し、それが「御恩と奉公」「いざ鎌倉」につながる。このあたりは高校の日本史で習ふことだが、ここで「公」が出てくるわけだ。「公」自体は飛鳥時代の「公地公民制」からあるのだが、人民の側から発想されるものとしてはこれが初めらしい。そして板東武者の間には「名こそ惜しけれ」といふ意識が奨励された。

 さらに戦国時代の幕開け、北条早雲は伊豆一国からほぼ板東全域を制したが、農民に兵士として働いてもらうためには、支配者たる北条家が自らを律し、領民から信頼されねばならないと考へ、それを家訓にまとめた。そして、そういふあり方は間もなく全国に広まった。

 そのやうな過程を経て、庶民にも「公を大事にし、公に顔向けできないやうなことをしてはいけない」といふ意識が醸成される。それは幕末から明治維新にかけても十分発揮された、と司馬は考へる。この国をどうするか、といふことを真剣に考へたわけで、幕末は方向が二分されたが、維新では一本化され、急速な近代化が成し遂げられた。

 しかし、日露戦争後の賠償請求への不満から起こった日比谷焼き討ち事件が、道を踏み外す発端となった、と司馬は言ふ。それはやがて統帥権の拡大解釈による軍部の独走といふ事態をもたらし、破滅に至る。その時代の「公」は軍部だった、と司馬は言ってゐないが、さう考へてゐる振りをしなければ生きていけなかったのかもしれない。さてをき、この40年ほどは日本史の中で特異な期間だったと言ってゐる。そして戦後、またも日本人は本来の力を発揮し、奇跡の復興を遂げる。


 かなり説得力のある見解と思った。いはゆる「恥の文化」もこの文脈で語ることができるかもしれないし、特攻などといふばかげたことに突っ込んでいった事にも一定の説明が可能と思へる。ともあれ、司馬の結論は「名こそ惜しけれ」といふ観念を根底に据えて世界に立ち向かふこと、であった。
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