19日、元横綱大鵬の納谷幸喜さんが亡くなった。72歳だったという。

 子供の頃、プロスポーツは野球と相撲しかなかったから、両方とも自然に興味を持った。相撲が始まると、新聞は十両以上のすべての勝敗に加えて、幕下以下については北海道出身力士の星取表を載せていた。そこも見ていたのだが、納谷という力士が幕下の一桁で好成績を収めているのに気づいたのはいつの事だったろうか。

 それを忘れた頃、「明日の角界を担う大鵬のすべて」という囲み記事に接した。入幕が確実になった時のことで「3年で入幕?の超スピード」というサブタイトルがついていた。親方が期待を込めてつけた四股名の由来も簡単に書かれていたが、その記事で納谷が関取になって大鵬と改名していたことを知ったのだった。

 今回の報道で入幕が昭和35年1月だったことを知ったが、してみると「幕下上位の納谷が好成績・・・」というのはその1年ほど前だったと思われる。その新入幕の場所、初日から白星を続けて11連勝、それは千代の山の10連勝を破るものだった。ただ、千代の山の時は一場所が十日だったので、厳密には違う表現が必要だが・・・。

 そして12日目、小結柏戸に敗れるのだが、その対戦は「柏鵬時代の夜明け」と言われた。その少し前、「富樫」という平幕力士が12勝3敗だったことを覚えいるが、それが柏戸になったのだった。ともあれ、ちょうどテレビを買って間もない頃だったので、柏戸の左下手投げを鮮明に覚えている。

 横綱になったのは翌昭和36年の11月場所だったが、大関できっちり二場所連続優勝しての昇進、続いてさらに二場所、計四場所連続で優勝した。柏戸は同時昇進だったが、条件をゆるめてのもので疑問に思ったことを覚えている。しかし、「柏鵬時代」を売り物にするための方策としては許されるかと考えるほかない。


 ところで、大鵬は横綱昇進の際、インタビューに答えて「これからは自分との戦いだ」と言ったそうだ。私はそれを父親から聞かされた。中学生になった年だったので、学業に向かう姿勢を諭すための話だった。もっとも、「自分と戦う」ということの意味がよくわからなかったのだが・・・。



 余談だが、大鵬は「美男力士」と言われた。父親がロシア人で、混血が良い方向に働いたのかもしれない。ご両親の顔は知らないが、実にハンサムで、彼を超える美男力士は未だに現れていない。ひょっとしたらいるのかもしれないが、少なくとも幕内に昇進しなければ話題にもならないだろう。天は二物を与えずというが、例外も大鵬に限らず結構たくさんあるものだ。
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吉田弘さんが亡くなったことを新聞記事で知った。さほど有名な人ではないが、ダ・カーポのヒット曲「宗谷岬」の作詞者と言えば「へえ、そうなのか」と思う人も多いだろう。少なくともこの曲は、ある年代以上の人にはなじみがあるはずだ。


 私が定期的に稚内に出張していた期間に、吉田さんが詩集を出すことを計画し、どういう経緯かは忘れたがその印刷を受注した。30年以上前なので、100万という額は単発としてはかなり大きな仕事だった。その後、第二弾の詩集やローカル雑誌を発行したりしたが、資金繰りに行き詰まり、縁が切れてしまった。

 その間2年ほどだったと思うが、「宗谷岬」に関連して、作曲した船村徹氏の思い出や、当初別の歌手が歌ったがそれを聴いて売れないと思ったことなどを話してくれた。そしてダ・カーポのカバーでNHK「みんなの歌」に採用され、大ヒットになったわけだが、出版にはそれによる印税を使ったらしく、底をつくのは時間の問題だったのだと思われる。本業は歯科医だったが、実は技工士の免許しか持っておらず、モグリだという噂を当時耳にしていた。「歯科医」としての収入では、道楽レベルの出版業を継続するのは無理だったのだろう。今回の記事の略歴には歯科技工士しか載っていなかったので、噂は真実だったことになる。

 享年84歳とあったので、その頃は50歳を超えた頃だったわけだが、回収に手間取った末期には険悪な関係になってしまったことも、今となっては懐かしい。また、私とほぼ同年齢の女性が助手を務めていたのだが、文学的素養の高かった彼女の名を、20年くらい後にエッセイストとして見つけ、むべなるかなと思ったものだ。しかし、その後彼女の活躍はあまりないようで、少し残念な気がしている。


 ともあれ、稚内の街と人々を愛していた吉田弘さんは、私の人生の1ページに刻み込まれている。  合掌。
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高校3年の初夏のころ、S・Mという2年生の女子から交際を申し込まれた。彼女と知り合ったのは、少し前に開催した体育祭だったと思う。私は生徒会の役員をしており、運営に携わっていたが、その関係である。

 しかしその時、私には別の思う人がいた。やはり体育祭の運営がきっかけで知り合った1年生で、くりくりと大きな目で人形のようにかわいらしい女の子だった。昼休みのフォークダンスのパートナーを頼むと承諾してくれ、最後にあった相手が代わらないダンスを楽しむことができた。

 そんなわけで、S・Mさんの申し入れは断ることにしたのだが、その話し方がまずかった。具体的なことは忘れたが、それを女の子の扱いに慣れている友人に話すと、きちんと事情を話すべきで、そんな謎かけのようなことをしてはダメだと言われた。そうか、悪いことをしたなあと思ったが、結局そのままにしておいたのだった。


 それから20年以上経って、仕事上知り合った同年代の人の家族と会う事があった。ひょんなことから出身高校の話になり、その奥さんが私の姉も同じだと言う。そして、お姉さんが1学年下とわかり、苗字はSだけど知りませんかと聞かれた。まさしくS・Mさんだった。さほど珍しい苗字ではないものの、小学生と思しき坊やの顔つきがMさんを彷彿とさせ、確信したのだが、私はそういう負い目があって、知らないと答えてしまった。

 あとで考えると、知っていると言えば話は盛り上がったはずで、Mさんとの再会もありえたかもしれない。しかし、20年の歳月は私にとってまだ短かったのだろう。40年以上の今なら、いや、30年くらいでも言えたように思う。仕方がなかったとはいえ、思い出す度に悔やまれることではある。
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初代若乃花が亡くなった。「土俵の鬼」と異名を取った名横綱だった。小学生(多分3年)の時、そのタイトルの映画を学校で見せられた。内容はほとんど忘れたが、線路で貨物車両を押しているところだけははっきり覚えている。たしか室蘭駅構内で、普通は数人がかりで押すのを一人でやっていたのだ。当然相撲界に入る前のことだが、それだけ力持ちだった、という印象が強烈だった。

 横綱になったのが昭和33年とのこと、私が相撲に興味を持ち始めたときは既に横綱だった。しかし、なぜか千代の山が好きで、それ以外はどうでもよかったが、彼と鏡里が引退して名実ともに栃若時代だったころ、両者が千秋楽に全勝でぶつかった一番を隣家のテレビで見たが、アナウンサーが「日本一強い若ノ花と日本一うまい栃錦」と言ったことをよく覚えている。

 続いて朝汐がスピード出世で注目され、さらに柏鵬時代の夜明けを迎える。九州場所と名古屋場所ができ、年六場所になるのがこの頃のことだった。スポーツと言えば野球と相撲、そういえば長嶋茂雄のデビューも昭和33年、日本シリーズで西鉄ライオンズが奇跡の大逆転、「神様仏様稲尾様」もこの年だった。

 売春防止法も東京タワーも同じ年で、随分いろいろなことがあったという感じがする。私はと言えば、4年生になり、新しくできた学校に通うようになっていた。とはいえ校舎がまだ建築中で、初めは中学校を間借りし、その後町内会館のようなところを仮校舎にした2クラスの一方になり、9月か10月に新校舎で全員がそろった。鉄筋コンクリートは目新しく、気持ちが良かったが、体育館がなく、校章も校歌もないのが少し寂しかった。体育は屋外、運動会は自衛隊のグラウンドを借り、校章は多分5年生のときできたが、校歌はないまま卒業してしまった。卒業式は、教室を二つぶち抜いて行われた。体育館がないから、そういう作りにしておいたのだろう。

 しかし、町内会館時代の数ヶ月は実に楽しかった。学校まで2分足らず、3年生までは30分ちょっとかかっていたのと比べると、夢のような近さだ。昼休みはすぐそばの空き地で遊んだが、時には先生も一緒だった。放課後もすぐ同じところで皆と遊んでいた。勉強はまだ易しかったし、家では雨の日か夜に少ししただけだった。悩みなど全くなく、のびのびと過ごしていたのだった。年のせいか、その数ヶ月が懐かしい。
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高校2年の初めから、茶道部に籍を置いていた。面白半分に入部したのだが結構熱心にやったと思う。予想通り女子が多かったが、男子も意外なほどいた。

 3年になったとき、当然1年生が入ってきたが、なぜかすべて女子だった。2学年下というのは随分幼く、可愛らしく見え、我々男子は彼女たちをちゃんづけで呼ぶことにして、妹のように可愛がったのだが、その中に「ふみこちゃん」がいた。

 文化祭の時、そのふみこちゃんと一緒に各展示室をまわったのは、どちらも誘ったわけでなく、偶然の成り行きだったと思う。その時彼女が、地学の参考書を譲ってほしいと言った。私は、地学が得意で受験科目に選んでおり、地学部にも在籍していた。校内の模試では、地学部長を押さえていつもトップだった。それを知っている彼女が、1年生必修の地学を勉強するため、そういう依頼をしたのだった。

 私は2冊持っていたが、あまり使っていない方を、やはり使っていなかった問題集をオマケにつけてプレゼントした。

 その後、普通に先輩後輩の関係のまま卒業したのだが、2年以上経ったあるとき、なぜか突然彼女を思い出し、たまらなく会いたくなった。なにかで住所を調べて手紙を書き、一方的に日時と場所を指定してデートを申し込んだ。幸いなことに、ふみこちゃんは来てくれた。短大生になっていた彼女は、当時より綺麗になっており、「先輩に呼び出されたら来ない訳にいかない」というようなことを言っていたが、とにかく楽しい時間を過ごすことができた。

 しかし、恋人関係を望んだ私に、よき先輩以上の感情は持てない、と交際を断られてしまった。手紙を書いたのは秋の終わり頃、望みが絶たれたのを決定的に理解したのは、雪がしんしんと降る真冬の夕暮れだった。アダモの「雪は降る」を口ずさみながらとぼとぼと歩いたのだが、それからほぼ40年、彼女も今年度中に還暦を迎える。もう誕生日を過ぎたかも知れない。


 孫がいる方が自然と思われるが、今も可愛らしさのある「ふみこおばあちゃん」でいるのだろうか。きっとそうに違いない。
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