ネット上の(オフでも会ってゐるが一度だけ)友人が、リトグラフの額縁のガラスを割ってしまひ・・・といふことをフェイスブックに載せてゐた。それでふと思ったのだが、最近はガラスを割ったといふ話をあまり聞かない。自分も、半年くらい前に珈琲サーバーを割ってしまったこと以外思ひ出せない。

 しかし、以前はしょっちゅうあったことだ。思へば、プラスチックやアクリルの普及で、ガラス製品自体が減った事、そのガラス製品も、かなりの割合で強化ガラスになってをり、割れることが少なくなったのだらう。窓ガラスも強化ガラスや厚手のものが主流で、多少の衝撃には耐えられる。

 ガラスを割ると言へば、子供の頃のソフトボールや野球がすぐに頭に浮かぶ。空き地での遊びで、隣接する民家の窓ガラスを割るといふことがよくあった。年長者を中心に数人が謝りに行き、「弁償します」と言ふのだが、知る限りすべて許された。悪意がないのは明らかだし、謝りに来た事も評価して、「弁償なんかしなくていいよ」と言ふのだった。当時の漫画に、うるさいオヤジが怒鳴る場面よくあったが、少なくとも私は現実に見たことがない。

 現代では、さういふ空き地がほとんどない代はりに、児童公園など遊ぶ場所がまあまあ確保されてゐるし、年齢差のある少年達が一緒に遊ぶといふのも少ないやうだ。そもそも屋外での遊び自体減ってゐる。で、ボール遊びでうっかり・・・といふ事が格段に少なくなったのだらう。それは時代の変遷の現れで、善悪を云々するつもりはない。ただ、ちょっと昔を懐かしむ気持ちが浮かんだので、書いてみた。だから、カテゴリーは「社会」ではなく「思ひ出」である。
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 CDの時代になって久しいが、「レコード」はまだ死語にはなってゐないやうで、時折、ラジオなどでレコードを懐かしがる話が紹介される。レコードといふものは、多分小学校低学年の頃、雑誌の漫画で知ったと思ふ。その頃は、落とす割れるものだった。間もなく「割れないレコード」が登場したが、材質は新旧ともに知らなかった。後に割れないのはプラスチックと知ったが、割れる方は未だに知らない。

 現物を見たことがないのだから仕方がないが、プラスチックの現物は多分5年か6年のときに初めて見た。近所に引っ越して来た家庭に、私より二つ上と一つ下の姉妹がをり、行き来するやうになったが、そこにはステレオがあったのだ。当時私は、モノラルプレーヤー持ってゐる家すら知らなかった。

 さて本題、レコードを初めて買ったのは高校1年のときである。自宅でステレオを買って・・・といふことではない。その一家がまた引っ越すことになり、妹の方への餞別として買ったのだ。曲はボビー・ソロの「ほほにかかる涙」、前年のサンレモ音楽祭で入賞した曲で、ちなみに優勝はジリオラ・チンクエッティの「この胸のときめきを」だった。この催しを私は偶然TVで見たのだが、これがとても気に入り、レコードが欲しいと思ったが、プレーヤーがないので買っても意味がない。そこで、その彼女にプレゼントすることにしたのだった。

 かう書くと、いかにも私が彼女に恋心を抱いてゐたかのやうである。日本では布施明が歌って結構ヒットしてゐたし、その訳詞は「おまえを思って このほほの涙・・・」といふものだったからだ。しかし実際は違ふ。知り合ったのが小学校高学年、高校生と中学生になって恋と言へる心情に変化する可能性はあったと思ふが、仲の良い幼なじみといふ間柄のままだったのだ。ただ、正直に言へば私の方には少しさういふ気持ちも芽生へてゐたが、向かうはさうではなかったと思ふ。そして私も、もっと踏み込まうといふ気持ちはなかった。

 実は彼女が私を好きで、告白を待ってゐたのだが、それがないまま離ればなれになり・・・60代になって再会してそのことがわかり・・・となればストーリーとして面白いのだが・・・「黄昏流星群」(弘兼謙司)の世界だな^^
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19日、元横綱大鵬の納谷幸喜さんが亡くなった。72歳だったという。

 子供の頃、プロスポーツは野球と相撲しかなかったから、両方とも自然に興味を持った。相撲が始まると、新聞は十両以上のすべての勝敗に加えて、幕下以下については北海道出身力士の星取表を載せていた。そこも見ていたのだが、納谷という力士が幕下の一桁で好成績を収めているのに気づいたのはいつの事だったろうか。

 それを忘れた頃、「明日の角界を担う大鵬のすべて」という囲み記事に接した。入幕が確実になった時のことで「3年で入幕?の超スピード」というサブタイトルがついていた。親方が期待を込めてつけた四股名の由来も簡単に書かれていたが、その記事で納谷が関取になって大鵬と改名していたことを知ったのだった。

 今回の報道で入幕が昭和35年1月だったことを知ったが、してみると「幕下上位の納谷が好成績・・・」というのはその1年ほど前だったと思われる。その新入幕の場所、初日から白星を続けて11連勝、それは千代の山の10連勝を破るものだった。ただ、千代の山の時は一場所が十日だったので、厳密には違う表現が必要だが・・・。

 そして12日目、小結柏戸に敗れるのだが、その対戦は「柏鵬時代の夜明け」と言われた。その少し前、「富樫」という平幕力士が12勝3敗だったことを覚えいるが、それが柏戸になったのだった。ともあれ、ちょうどテレビを買って間もない頃だったので、柏戸の左下手投げを鮮明に覚えている。

 横綱になったのは翌昭和36年の11月場所だったが、大関できっちり二場所連続優勝しての昇進、続いてさらに二場所、計四場所連続で優勝した。柏戸は同時昇進だったが、条件をゆるめてのもので疑問に思ったことを覚えている。しかし、「柏鵬時代」を売り物にするための方策としては許されるかと考えるほかない。


 ところで、大鵬は横綱昇進の際、インタビューに答えて「これからは自分との戦いだ」と言ったそうだ。私はそれを父親から聞かされた。中学生になった年だったので、学業に向かう姿勢を諭すための話だった。もっとも、「自分と戦う」ということの意味がよくわからなかったのだが・・・。



 余談だが、大鵬は「美男力士」と言われた。父親がロシア人で、混血が良い方向に働いたのかもしれない。ご両親の顔は知らないが、実にハンサムで、彼を超える美男力士は未だに現れていない。ひょっとしたらいるのかもしれないが、少なくとも幕内に昇進しなければ話題にもならないだろう。天は二物を与えずというが、例外も大鵬に限らず結構たくさんあるものだ。
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吉田弘さんが亡くなったことを新聞記事で知った。さほど有名な人ではないが、ダ・カーポのヒット曲「宗谷岬」の作詞者と言えば「へえ、そうなのか」と思う人も多いだろう。少なくともこの曲は、ある年代以上の人にはなじみがあるはずだ。


 私が定期的に稚内に出張していた期間に、吉田さんが詩集を出すことを計画し、どういう経緯かは忘れたがその印刷を受注した。30年以上前なので、100万という額は単発としてはかなり大きな仕事だった。その後、第二弾の詩集やローカル雑誌を発行したりしたが、資金繰りに行き詰まり、縁が切れてしまった。

 その間2年ほどだったと思うが、「宗谷岬」に関連して、作曲した船村徹氏の思い出や、当初別の歌手が歌ったがそれを聴いて売れないと思ったことなどを話してくれた。そしてダ・カーポのカバーでNHK「みんなの歌」に採用され、大ヒットになったわけだが、出版にはそれによる印税を使ったらしく、底をつくのは時間の問題だったのだと思われる。本業は歯科医だったが、実は技工士の免許しか持っておらず、モグリだという噂を当時耳にしていた。「歯科医」としての収入では、道楽レベルの出版業を継続するのは無理だったのだろう。今回の記事の略歴には歯科技工士しか載っていなかったので、噂は真実だったことになる。

 享年84歳とあったので、その頃は50歳を超えた頃だったわけだが、回収に手間取った末期には険悪な関係になってしまったことも、今となっては懐かしい。また、私とほぼ同年齢の女性が助手を務めていたのだが、文学的素養の高かった彼女の名を、20年くらい後にエッセイストとして見つけ、むべなるかなと思ったものだ。しかし、その後彼女の活躍はあまりないようで、少し残念な気がしている。


 ともあれ、稚内の街と人々を愛していた吉田弘さんは、私の人生の1ページに刻み込まれている。  合掌。
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高校3年の初夏のころ、S・Mという2年生の女子から交際を申し込まれた。彼女と知り合ったのは、少し前に開催した体育祭だったと思う。私は生徒会の役員をしており、運営に携わっていたが、その関係である。

 しかしその時、私には別の思う人がいた。やはり体育祭の運営がきっかけで知り合った1年生で、くりくりと大きな目で人形のようにかわいらしい女の子だった。昼休みのフォークダンスのパートナーを頼むと承諾してくれ、最後にあった相手が代わらないダンスを楽しむことができた。

 そんなわけで、S・Mさんの申し入れは断ることにしたのだが、その話し方がまずかった。具体的なことは忘れたが、それを女の子の扱いに慣れている友人に話すと、きちんと事情を話すべきで、そんな謎かけのようなことをしてはダメだと言われた。そうか、悪いことをしたなあと思ったが、結局そのままにしておいたのだった。


 それから20年以上経って、仕事上知り合った同年代の人の家族と会う事があった。ひょんなことから出身高校の話になり、その奥さんが私の姉も同じだと言う。そして、お姉さんが1学年下とわかり、苗字はSだけど知りませんかと聞かれた。まさしくS・Mさんだった。さほど珍しい苗字ではないものの、小学生と思しき坊やの顔つきがMさんを彷彿とさせ、確信したのだが、私はそういう負い目があって、知らないと答えてしまった。

 あとで考えると、知っていると言えば話は盛り上がったはずで、Mさんとの再会もありえたかもしれない。しかし、20年の歳月は私にとってまだ短かったのだろう。40年以上の今なら、いや、30年くらいでも言えたように思う。仕方がなかったとはいえ、思い出す度に悔やまれることではある。
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1949年1月生まれ、還暦を期にブログを始めました。記述することは多岐にわたります。
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